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名無しの島 第31章 銀色の目

 人体ムカデが、凶悪な形相で迫ってきた。

もう3メートルも離れていない。

だが、水落圭介は鉄扉を押さえている両手を離せなかった。

というより、恐怖で体が膠着して、身動きできないでいた。

有田真由美の凄惨な殺され方を目の当たりにして、

金縛りにあったように、体がいうことをきかない。

意識では早く逃げねばと思いながらも、

どうにもならないでいた。

まるで両手が鉄扉に接着されたかのようだった。

人体ムカデは、もう目前に迫っている。

水落圭介は両目を固く閉じた。

次の瞬間には、オレは殺される・・・。

 その時だった。隣の部屋に逃げ込んでいた、

小手川浩と斐伊川紗枝が、

水落圭介の背負っているリュックを掴んだ。

二人は力任せに、圭介を引き戻した。

圭介は後ろに引っ張られるようにして、

その部屋に後ろ向きに倒れこむ。

すでに両手は鉄扉から引き剥がされていた。

人体ムカデの腕が届く直前に、

鉄扉は大きな音を立てて閉じた。

 斐伊川紗枝が、

まだ圭介の右手に握られているキーの束を

もぎ取るようにして、それを手にした。鉄扉へ走る。

彼女は、汗だくになりながらも、鉄扉に鍵をかけた。

その直後、ドンッ!という鈍い音が鳴り響いた。

化け物が、そのスピードを押さえられず、

鉄扉にぶつかったのだ。

その後は、何の衝撃音もしない。嘘の様な静寂に包まれた。

 3人は床に座り込み、全身で呼吸していた。

逃げ込んだ部屋は、60平米ほどの広さだった。

水落圭介は、無意識にこの部屋の天井を見上げた。

天井には、蛍光灯が4つあるが、

一つは割れていて光を放っていない。

残りの3つも、小刻みに点滅している。

気が動転していたせいで、

部屋の様子がこれまでと違うことに

気づくのに時間がかかった。

3人が逃げ込んだ部屋は、

これまでの3つの部屋と違い、床も壁も天井も、

まだらに茶褐色に染められている。

床はリノリウムのようだが、

何か乾いたものがこびりついている。

「あ・・・あれ・・・・」

 斐伊川紗枝が震える声で、指を刺す。

圭介も荒い息をしながら、彼女の指差す方を見た。

 そこにはおびただしい数の、白骨死体が転がっていた。

なかには薄汚れた白衣や、ボロボロに朽ちた軍服らしきものを、

身に着けているものもある。

彼らは化け物に追われてここに逃げ込んだのだ

―――いや、違う。

点滅する蛍光灯で、よく見えなかったが、

どの死体も損傷があったのだ。

あるものは、頭蓋骨を割られ、

またあるものは腕の骨を折られている。

彼らは化け物たちに襲われたのだ・・・。

 水落圭介は床に散らばる、

長い棒状の物が十数本存在していることを認めた。

それは三八式小銃だった。

だが、どれも赤茶けてひどく錆び付いている。

どれも使い物になりそうにない。

この部屋に追い詰められた彼らは、必死の抵抗をしたのだ。

しかし、全滅した―――。

圭介はあらためて、まだらな茶褐色の床や壁を見た。

それは凝固した血だった。

化け物と戦った彼らの血だ。

「小手川君・・・もう逃げ道はないのか?」

水落圭介は、血塗られた壁を見つめながら訊いた。

「水落さん、(シュッ)ライトを貸してくれますか?」

 小手川浩にそう言われて、

圭介は彼にマグライトを手渡した。

マグライトを点灯させると、彼はふらりと立ち上がった。

小手川浩の動きはぎこちなかった。

足を引きずるようにして歩いている。

痙攣しているかのように、

両手を引きつらせていた。

彼は、逃げ込んだ部屋を調べ始めた。

時おり明滅する蛍光灯のもとで、

歩いている小手川浩の姿は、

今までに遭遇した化け物たちとそっくりに見えた。

 小手川浩は歩くたびに、

床に散乱している人骨を踏み砕いていった。

ときには、壁にもたれかかっている、

白骨死体を蹴り飛ばしている。

水落圭介は、隣に座っている斐伊川紗枝を見やった。

彼女はうずくまるようにして、震えていた。

何かを探している風の、

小手川浩を見ようともしていなかった。

彼女も彼に対して、

何か不吉なものを感じているのかもしれない。

小手川浩が部屋の中をうろついている間、

静かだった。いや、静か過ぎる。

隣の部屋にいるはずの化け物は、

あの凶暴さは陰を潜め、物音一つしない。

あの巨体では鉄扉を破壊できても、

通過することはできまい。

それに小手川浩の話によると、

図面ではコンクリート壁の厚さは

1メートルほどあるらしい。

あの化け物がこの部屋に入ることは不可能だ。

しばらくして小手川浩の声がした。

荒い呼吸音に乱れた声だったが。

「あった・・・(シュッ)」

 水落圭介も立ち上がって、彼の方へ向かった。

小手川浩が指差す所を見ると、

幅80センチ、縦60センチほどのハッチがあった。

それは錆ついていて、ほとんど茶褐色の壁と境が無く、

普通なら見落としかねないものだった。

「これは?」

 圭介は小手川浩に訊いた。

「図面によると・・・(シュッ)

 ここから約30度の傾度で(シュッ)

 200・・・(シュッ)メートル・・・外の岸壁に・・・

 (シュッ)出られます・・・」

 間近で見る小手川浩は、

ほとんど人間の肌をしていなかった。

灰色がかった皮膚に、銀色の双眸。

ワクチンは何の効果も無かったように見える。

彼はその脱出ハッチを閉ざしている蓋を開けようとしたが、

錆がひどくてびくともしない。

「水・・・落さん・・・ピッケルと(シュッ)

 ライター・・・を(シュッ)貸してください・・・」

 圭介は彼にピッケルとジッポライターを渡した。

こんな物を何に使おうとしているのか?

水落圭介が訝っていると、

小手川浩は、ピッケルでその脱出ハッチをこじ開け始めた。

常人ならば、とても開きそうにない密閉した蓋に、

ピッケルの先をねじ込む。

そのままテコの原理で力を込める。

ピッケルの先端が刺さったハッチのへりは、

くの字に曲がり始めた。

ややあって鈍い音とともに、ハッチが開いた。

はずされた蓋は勢いの余り、

後方に飛んでいき、乾いた金属音を立てた。

小手川浩は、たしかに化け物になりつつある。

と同時に彼らと同じパワーが身につき始めているということか・・・。

「ここから・・・(シュッ)斐伊川さん・・・を連れて(シュッ)

 逃げてください・・・」

 ハッチの中を覗き込むと、ただの暗黒だった。

しかし脱出するには、彼の言葉を信じるしかない。

「斐伊川!こっちに来い!ここから外へ出られるかもしれない」

 圭介の呼びかけに、斐伊川紗枝はゆっくりと立ち上がった。

ハッチのそばまで来ると、紗枝は小手川浩の方に向き直った。

「ありがとう、小手川さん」

 彼女の言葉を聞いて、

小手川浩は銀色の瞳を細め、笑みをつくった。

その時とほとんど同時だった。人体ムカデのいる部屋から、

轟音が聞こえてきたのは―――。

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