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忘れ潮

昨夜は西瓜のような立派な冬瓜を炒めて出汁で炊いてトロトロにして食べたのだけれども、大変美味しゅうございました。優しいお味にほっこり。本日も余り物をモグモグと戴きまして、ご馳走様です。年々濃ゆいお味が苦手になるもの、体の臓器たちも同じ様に歳を重ねるのだから自然な事だけれども、消化する力が弱るのだろうから、こころで感じるものばかりを優先するのではなく身体が歓ぶもの、欲するものを受け止めてあげないとだね。歳を重ねるって、楽しい。

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頂いたコメントを読んでいて、何気ない一言にふと感じた事がありました。本日は少しばかりそうしたお話をしてみようかと思います。

日記を綴るにあたり普段お喋りする際には使わない、読みづらい書けない様な難しい漢字を敢えて使用しているのだけれど、どうしてわざわざ。。と思いますよね。だって簡単で読みやすい文章の方が単純に分かりやすいし入り込みやすい。けれども、数年前、読書が習慣になってから気が付いた事があるのです。


私が主に拝読する、興味が有り手にする書籍と云うのはどれもこれもが難しい漢字だらけ。特に文豪と呼ばれる方々の著者の著書と云うのは、古語だらけで難解。その為、一頁目から挫折しそうになる程だったりもする訳です。故に辞典は常に引くようになるし、幾つも解らない漢字や意味が理解出来ない文字の羅列が続く場合は、付箋にペンでその言葉を記しておいて、ある程度読み終えたらば後にまとめて調べて理解していく。そうした読み方をするものだから、比較的短いお話であっても、一頁で1時間が必要な事もしばしば。


私は勉強をしてきた人ではないし、小学生レベルの漢字ですら復習をしてみたらば書き方や読み方を未だに間違える程だけれども、それでも目覚めてから直ぐに読書をする習慣を辞めない理由や、日記を綴る際に漢字を多く使用する理由は、日本語の美しさに魅力を感じているからが前頭にあるのです。知れば知る程、その言葉のひとつひとつが奥深く又、響きも心地好い。


1時間で読み切れる書籍は、読みやすく分かりやすく大変有難いものだけれども、その分深みが無いものが多いので心には響かず残らない事の方が私は多いのです。最近ではよく「難しい言葉ばかりを長々並べて語る人間は馬鹿だ」などと言われていたりもしますよね。言いたい事は実によく分かります。校長先生のお話は退屈で仕方がない、それに近しいのだと思います笑。


然し、現代語ではなく古語を大切にすると云う事は昔から繋げてきた日本の文化を護りたい、過去の歴史を言葉を通じて残して往きたいと言う心の表れでもあるのだと、文豪たちの書籍を拝読する中で知るのでした。当時だって新たな言葉は沢山生まれていた筈なのだけれど、彼らは短編小説ひとつにしても、内容だけでなく多くの難解な言葉を使用して読む側に言葉の奥深さや美しさを与えて来た様に感じるのです。


この感覚は、例えばお手頃価格でそれ相応の、季節毎に駄目になる様なお洋服と、一生涯御付き合い出来る程の、お手頃価格ではないけれども上等なお洋服との違いに非常によく似ています。つまりは、質量のお話なのですね。


読み易い書籍は手に触れやすいけれども、時代が変われば捨てられたり、忘れ去られてしまう。一方で難解な書籍は手に触れにくいけれども、一度手にすれば時代を重ねる毎に良著として読み継がれ、一生涯の御付き合いとなる。書く側がどれだけの想いを以てして一冊の本にしたのか。


今時はそこまでする必要性を求められておらず、当人が既に著名人であらば非常に簡単に出版する事が可能で、自分以外の人間に言葉を含め全てを丸投げをした形、特別にこだわりがある訳ではなくとも世に出す流れ、それらは一時的には売れるものですよね。これが今なのだと感じます。

それもまた正しいので決して否定はしません。私もサラサラと流れる様に読める本を手にする事があるし、息抜きや癒しになる事もあるので必要なのだと感じています。ただ、

頁を開く毎に彼らの息遣いが聴こえる程の、命懸けで重量が在る書籍に触れた時、私はこの質量の違いに気が付きました。


質の良いものは一生涯御付き合いが出来るのだと考えるとね、とりあえずだったり、どうでもいいものばかりを手にしていると、小さなものの積み重ねで最期には、不必要なものばかりが残る結果を招いてしまうかも知れない。


例えば貴方の大事な人が書いたお手紙と、勝手にポスティングされていたよく分からない手書きのチラシ、どちらが手に触れたいものですか。そしてどちらにより多くの息遣いや魂を感じますか。捨てずに残しておきたいのはどちらですか。そこには必ず、質量があるのですね。


そこで初めて、私はやたらと難しい言葉ばかりを淡々と並べ連ねる書籍を重要視しました。私も学ぶことばかりの中に在って、上手に言葉を並べる事は恥ずかしながら出来ておりませんが、なるべく分かりやすくと考えるのではなく、美しい言葉の数々を使用しながら綴るようになった訳です。もともと長文が好きと云う事も相まって、書く事も癒やしに繋がっていたりもするのですが、毎日綴っていると僅かに、覚えたての漢字や言葉の流れを現実でも使用する様になっていたりします。ラッキィな気分。


下品であったり不快に感じられるような言葉も、時折は面白いので使う事もアリだと自身の中では決めています。力みすぎても何も善いことなどないのだと実感しているし、人間、ユーモアを忘れてしまってはバランスが崩れてしまって、笑顔も相手を想える優しさも失ってしまうようなつまらない者になってしまうからです。洗練されたものばかりしか見れなくて偏ってしまっては、本末転倒ですよね。少しお話は変わりますが、そう、


私が何処に向かうのが重要かと云う事は、長い歴史を見てみれば大した問題ではなくて、それよりも、何処に向けて、何を繋いで生きて逝きたいのか。それが根本であり軸であり、重要であるのではないかと、改めて今感じていました。古語を用いて綴る事もまたひとつの要因なのですね。

人はやがて死ぬ。それは全ての人間に平等に与えられている唯一の絶対なのだから、それまでに自分のやりたい事を済ませて何かを残して、やらなければならない事ではなく、その日までに何処に向けて何を伝えて繋げていけるのかと云う事。


自分ひとりでは到底叶えられそうもない願いであらば、誰かを愛すれば良いのだし、愛し合えるのであらば、愛する人との間から産まれてくるその命を繋げていく事でまた、貴方の想いは届いていくのかも知れない。面白いですよね。これはあくまで個人的な私の思想や思考だけれども、大事だと感じましたので、記しておきます。



長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださった皆様方、退屈ではありませんでしたか笑。本当にいつもありがとうね。


どうか健やかで、どうかご無事でお元気で。
私は日々ここから祈っております。

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いつだって最期のお手紙。


またあしたね◎

2021.7.21 金田友希


2021年1月1日より毎日投稿しています。 目を通した先のその心に触れた皆様方の人生が『生きていてよかった』と想える有意義なものになるお手伝いが出来たらば、これほどに嬉しい事はありません。何もない日だって特別、綴る事が私や貴方の拠り所であるように。 またあしたねという最期の手紙。