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本当に「子育てしやすい」ってどういうことだろう

子育て世代のSNS界隈でよく話題に上がる地方自治体がある。兵庫県明石市だ。それもそのはず、明石市の政策は子育て世代にものすごく刺さる。というかわたしに刺さりすぎた。

おむつ定期便やら子供関係のサービス無償化(現金配布ではないところがまた良い)やら明石市独自の施策は、まさにいま子育て真っ最中のパパママ世帯にとっては喉から手が出るほどほしいサービスだ。自治体が提供するサービスで子育ての難易度は大きく変わる。でも実際いま自分が住んでいる自治体のサービスはそう簡単に変わるもんじゃないし、かといって自分の住居を明石市に変えるなんてウルトラCはもっと難しいだろう。

でも当たり前に、子育ては待ってくれないし、自分の生活だって待ってくれない。しかも自分がいるのはイスラエル。日本の公共事業なんてどれだけほしくても受けることなんてできやしない。この国で受けられるいろんなサービスだって外国人の身の上でIDが無いから困ることがほとんどだし、言葉だって不自由で、毎日生きていくだけでぐったりする。

ところが不思議なことに、この国で「子育てしにくい」とは思ったことが一度もない。一方で、日本では「子育てしにくい」と何度も何度も思った。その違いはいったい何だろう。わたしが日本で育児をした期間は3か月ほどであるし、コロナ禍という特殊環境下なのでそもそも子供と一緒に外出する機会がほとんどなかった。なによりも自分の体験や各種SNSママアカウントくらいしかサンプルがないので、意見を一般化するにはなかなか数が少ない(いや少なすぎる)のは重々承知であるが、いまの自分と家族が生きやすくなるために「(わたしにとっての)子育てしやすい」環境を考えてみる。

まず第一に、子育てはポジティブな感情だけじゃ絶対にやっていけない。むしろネガティブな感情に振り回されることの方が多いかもしれない。どれだけ我が子がかわいくても心に黒いものは降臨するし、手が出そうになることもある。まだ子育てをはじめて一年ちょっとのわたしですらこれだ。三年五年十年……長年子育てを続けておられる諸先輩達は、もっと黒いものを背負っているはずだ。そういう「黒いもの」がやってくるときのわたしの精神状態はというと、子をかわいいと思えなくなりがちだ。そうなると、いつもならこなせているはずの子のお世話のあれやこれやがしんどくなるし、子育てどころか自分の日常生活を送ることさえままならなくなる。

つまり、この「黒いもの」の降臨をいかに抑えるかがわたしにとっての子育てのしやすさにつながるのだが、じゃあそれはどんな時に出てくるのだろう。たとえば娘が泣いて泣いてどうしようもない時。たとえばせっかく作ったご飯を床一面にぶちまけられてしまった時。たとえば真夜中に娘が起きて二時間寝ない時。たとえばやらなきゃいけないことがあるのに寝かしつけで一緒に沈没してしまった時……。言い出すときりがないが、整理するとどれも「もう自分ではどうすることもできないお手上げの状態」に黒いものがやってくるのだ。とはいえ、どんなスーパーマンでもお手上げ状態は避けられない。そう、一回もボンビーが憑りつかれることなく桃鉄のエンドを迎えることなんてないのと同じだ。しかしボンビーから逃げることはできるように、防御策がないわけじゃない。お手上げ状態をできるだけ回避することはできるのだ。他の人の手を借りる。これしかない。

幸いイスラエルにはそれを簡単に賄える文化と習慣がある。家族はみんな子育てをするし、ベビーシッターを雇うことだって日本より何倍も楽だ。それはこの国全体が子供を増やすことを、家族を大事にすることを人生の幸せとして受け入れているから生まれた習慣だと感じる。必ず夕食は家族と取り、安息日には親戚で集まって穏やかに過ごす。こんな生活ができている子育て世帯、日本じゃきっと激レアだ。両親のどちらかは子が就寝してからじゃないと帰ってこれず、休日は家族ばらばらに過ごすこともざら。親戚なんて会えても年に一、二度で、そんな距離感だと子守りを頼むなんておいそれとできることじゃない。

イスラエルで子育てがしやすい理由を考えた時に瞬時に浮かんだのは、「子育てをみんなでやる」ということ。お父さんが平日の夕方四時に保育園に迎えに来てそのまま公園へGOなんてのは日常だし、兄姉は弟妹の世話をするのが当然だし、大人の手が足りない場合はベビーシッターや家政婦を雇って解消する。生後二か月の子のナイトシッターなんていう募集も時おり見かけるほどだ。もちろん我が家にもなじみのシッターがいるし、夫もがんがん娘の世話をする。お隣さん家は祖父母と言わず叔父叔母が子守りにしばしば登場する(なんならその親戚の家で働いている家政婦も来る)し、母親がワンオペで子育てするなんて考えはこの国には存在しないのだ。

平均出生率が3(今年は割り込んでしまったけれど)あるこの国では、道を歩く10組の内2~3組はベビーカーを押しているし、連れている子供だって複数であることがほとんど。つまり、子を持つ人間が多い=子育てでしてほしいことがわかる人間が多いのだ。それは回りまわって、日常生活で助け・助けられることにつながる。バスの乗降時にだれかがベビーカーの補助をしてくれる。子供が泣いているとあやしてくれる人が現れる。レストランでキッズメニューがないときにはこういうのならできるよと提案してくれる。公共の場で子どもが駄々をこねていても「元気だねえ。でも子供だからしょうがないよ」と労わってくれる。そして何より、通りすがりに「あなたのお子さんかわいいね!」と笑顔で声をかけてくれる人が大勢いる。いま書きながら「これに尽きるわ……」とすでに解を出してしまった感があるが、かわいいは世界を救うのだ。我が子に対する好意的な声掛けをもらうと、それだけで気持ちが上を向くのはきっと国籍や人種に関わらず、どの家庭だって同じだ。

そう、この国では多くの手を借りて肉体的な余裕を作ることができるし、優しい言葉や差し伸べてくれる手のあたたかさに救われて精神的な余裕も生まれる。だれかに依存しすぎることなく、だれかが負担を抱えすぎず、そして余裕を作れる環境にあること。これがわたしにとっての「子育てしやすい」環境なんだと思う。

日本でそれができないとは言わない。しかし同じようなことを求めてもなかなか難しいだろうし、一定の反感すら抱かれるだろう。日本に本帰国した後を考えるとやっていけるかどうか不安ではあるけれど、とりあえず公園に突撃してたくさんの方とコミュニケーションとっていきたいな。当地で鍛えられているコミュ力が、きっと大いに役立ってくれるはずだから。

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