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自己完結するユーモア―「笑い」に関する所感

 僕は「ツッコミ不在」のジョーク、ギャグ、ユーモアが好きだ。

 小学生の頃からアメリカの短編アニメーションや星新一のショートショート、藤子・F・不二雄の短編漫画、長谷川町子や植田まさしの4コマ漫画に触れていた僕にとって、笑いの本質は「ボケ」という道化(言わば我々の世界の外にいる異物)が織りなすユーモアそのものにあり、「ツッコミ」という常識人(言わば我々の世界にいる一般市民)によるギャグの補強にはイマイチ乗れなかった。バラエティ番組や情報番組のテロップにまで及ぶそのユーモアの説明的役割に、いまひとつ必要性を感じていなかったのである。(今ではその説明の重要性もよくわかる。後述するように、自己完結するユーモアは刹那的な笑いの消費には全くもって向かないからだ)

 僕が愛好してきたカートゥーンやナンセンス漫画・小説の世界では、基本的には道化は作品世界の中で常識人を圧倒的に上回る優位性を保ち続ける。
 かりあげクンはその不屈のポーカーフェイスであらゆる常識をかき乱し続け、バッグス・バニーは狩人のエルマー・ファッドをあらゆる手を使って混乱させる。ドルーピーは徹底的な不条理によって悪人のオオカミを狂気に陥れる。時にはロードランナーとワイリー・コヨーテ、テックス・アヴェリー作品のオオカミやスパイクのように、道化と常識人の関係性が溶け合って常識人が「常識をかき乱される道化」に変容するパターンもあるし、谷岡ヤスジの漫画ではもはやその世界に常識人なるものは一切存在しない。長谷川町子の『サザエさん』も、暖かなペーソスで包まれてはいるがあらゆる人間が道化になり得るのであり、常識を攪乱させる。

 これは僕の単なる偏見である可能性が非常に大きいが、現代日本ではこの「ツッコミ不在」のユーモアが広く受け入れられるとは言い難い状況にあるようだ。ギャグ漫画ではツッコミ役が派手なリアクションを行って初めて笑いのリズムが成立するし、ツッコミ役のリアクションそのものがギャグと化す。多くの漫才も同様の関係性とリズムを示している。道化という異物が世界を完全にかき乱してしまう前に、常識人がそこに待ったをかけ、「君がやっていることはおかしいのだ」という解説を行うことではじめてユーモアは完結する。観客や読者はその関係性の完成によって、自らの世界がかき乱される恐怖から解放され、安心感とカタルシスを得ることができる。その「かき乱されそうで現状維持」な関係性の中で、受け手は安心して笑うことができるのだ。

 同様に、あえて作品内での説明的要素や情報量を減らし(すなわちツッコミも排除し)、一見どこが笑いどころなのかわからないような素振りを見せておきながら、よく考えるとニヤリとさせられる、いわゆる「考え落ち」というものも、現代の日本では段々とその大衆性を失っているようだ。落語や漫談、アメリカンジョークでは一般的な笑わせ方で、昔からショートショートや風刺漫画では数えきれないほど多用されてきたオチである。
 僕も趣味の延長線上でこの「考え落ち」を使った漫画を描いているが、やはり読者の方からは「よく理解できない」という声もいただく。これは読者の理解力の問題ではなく、単に自分の漫画技術が下の下である可能性が相当に高いが……。
 僕はこの「考え落ち」が昔から大好きなので、現代コンテンツでこの手を使って笑わせてくれるものが(自分の知る限り)多くないのは残念なことである。

 では、なぜ「ツッコミ不在」のユーモアは(昔に比べて)さほど受け入れられなくなったのだろうか。ここで、「ツッコミ不在」のユーモアがもたらす笑いの性質についていまいちど考えてみたい。

 「ツッコミ」が存在しないユーモアは、すなわち「自己完結する」ユーモアと言い換えてもよいだろう。リアクションによる関係性の補強が欠如している分、どうしてもギャグそのものの爆発力は小さくなるし、瞬間的に消費できるものとは言い難くなるだろう(後述するが、この点こそが現代の笑いにおいて「ツッコミ」が重要視される理由だと推測している)。
 しかし、常識人が存在しないか、ないしは道化が常識人を茶化す(常識人よりも道化に優位性のある)ユーモアは、それが破壊的であろうと淡々としていようとどことなくドライな空気が漂っていて、ある種のレジスタンス精神すら感じさせるのである。つまり、常識人がわざわざ指摘しなくても成立する、自己完結型のユーモアなのである。そこではユーモアは既存社会の常識や既成概念を破壊する恐怖であり、観客は笑いの中に不安をも感じることだろう。かつて宮廷道化師がそうであったように、自己完結型のユーモアは時として権威に盾突くカンフル剤として機能する。恐らく僕は、この弱者による強者への反抗、既成概念の破壊にこそユーモアを感じていたのだと思う。

 本題に戻るが、ではなぜ「自己完結型」ではなくツッコミとボケの掛け合いによって笑いが初めて成立する、いわば「応酬型」のユーモアが現代日本では圧倒的な市民権を獲得しているのだろう。
 これは前述したように、そもそも笑いの消費スピードが以前に比べて刹那的になっていること、そして受け手の笑いに、ひいては社会に対する受動的な態度が原因としてあるのではないかと推測する。
 この目まぐるしい情報時代において、ひとつひとつのギャグをゆっくり考える時間はもはや受け手には残されていない。全てを枠の中にいる常識人が解説し、枠の外にいる受け手はあくまでも受動的な態度で笑いを消費するのではないだろうか。バラエティ番組のテロップも、お笑いにおけるツッコミも、それはゆっくりと流れる時間の中では過剰な要素かもしれないが、目まぐるしく時間も情報も移り変わる過密な世界では、その説明的役割は受け手を時間の流れから取り残されないようにするための重要な緩衝材なのである。先述した「考え落ち」の衰退も、結局のところはいちいちオチを考えるよりも、画面から受け取った情報通りの内容を処理する方が笑いという行動を手っ取り早くこなせるからなのかもしれない。

 よく巷ではこうした現状を例に挙げて「若者の読解力が低下している」「文脈を読み取る力が低下している」などと言われるが、一般的に「読解力が低下した」とみなされる人々の中には、おそらく「本当は読み取る力はあるのだが、時間がないので反射的に情報を消費する」人が一定数存在するのではないだろうか。もはや情報をかみ砕き、行間を整理する時間と体力など彼らには残されていない。一目見て面白い、全てを解説してもらうギャグに一瞬だけ自分の思考の全てを委ね、瞬間的に笑った後は粛々と再び目まぐるしく流れる時間と情報の渦に戻っていくのだ。

 そんな世の中でも、やはり僕は「自己完結型」のユーモアが好きなのだから、もしかすると僕は盛大に時代に取り残された存在なのかもしれない。あるいは、皆が忙しそうに日々を生きている中で呑気に思考に耽っているバカなのかもしれない。だが、この世のどこかにそうした「自己完結型」のユーモアを愛する人がいて、社会の常識を自己完結した世界の中でかき乱すキャラクターが、役者がいる限り、私はそれを愛し続けたいものである。

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