原理主義の先に平和はあるのか

今話題のハマスもそうだが、
〇〇原理主義の人たちは、間違いなく自分の中に正義がある。

そちらから見れば、間違いなく正義であり、平和になる行動をしていると信じている。

しかし、原理主義は、それがもし普遍的にも本質的にも正しいとしても(そんなものはないが)、前提として自分たちが一番であり、それ以外は認めない姿勢のことであり、それは同時に排他性を生む。

その排他性を俯瞰して捉えられない場合、無意識的に意図しないでも、相手を排他的に扱ってしまう。

だからこそ、自分が信じる信念を持つことはとても素晴らしいことだが、それを原理主義的に捉えるのではなく、他の人の信念に目と耳を傾ける姿勢がとても大切だと思うし、そのような姿勢を作っていきたいと思う為、現在の活動を行っている。

今日も偶然、日本を代表する宗教を信仰する学生と話したが、自分が排他的な言動をしていることに気づいておらず、説明をしてあげると、ハッとしていた。

ただその場合、本人は、なぜ自分の正しい信念を理解してくれないんだ、という排他性を感じていることが多い。

しかし、それは自分がまず相手の信念を理解しようと努める姿勢がなければ、自分の信念も理解してもらえない。ということに気づいていない為に起きる事象である。

なぜなら、愛したことのある者しか、愛すという行為を理解できず、つまり愛されたとしてもそれが愛されているかどうか理解できないという事象と同様に、相手の信念を理解しようとして理解することを知らない者が、相手に自分の信念が理解されているという実感が生まれるはずがないということである。

これは一言で言えば、無知の知が前提としてなければ、お互いを理解し合うことなんて不可能だということである。

だからこそ、自分自身に対しても、自分以外に対しても、問い続ける姿勢が大切だと思う。
そして、それは一人で続けることは難しいからこそ、それを補完し合える仲間がいるということが、この世界で楽しく豊かに生きる条件なのではないかと思う。

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