可能性と必要性

未来は可能性。
可能性の中に、必要な可能性が高いものがあり、それが必要性。

言い換えれば、必要性は、これまでの実績、経験、環境から考えられる、
必要な可能性が高いものである。

ということは、未来の可能性を考える場合、過去から考えることが前提となる。

しかし、それは、これまで観測できた(認識している)実績、経験、環境からという制限があり、森羅万象を網羅している訳ではない。

トンガの噴火のように、観測史上初めての規模のものは、
未来をどう変えていくのか、これから必要なのかを予測するのは難しい。

つまり、実績、経験、環境の延長線上に見えやすいものからしか、必要性を語れない。

これからの時代は、AIや3Dプリンター、ブロックチェーンが当たり前になる。
これは、これまでの社会を作ってきた実績、経験、環境の延長線上でできたものであることは間違いないが、その“延長線上“を認識している者だけが、これからの未来、可能性、必要性を考えることができる。

言い換えるならば、便利な世界だけを享受し、省略された過程に意識を向けない人たちは、“延長線上“を認識できず、未来の可能性、必要性を考えることができない。

だからこそ、過去を生き、延長線上を作ってきた人達が何を思って、何を作ってきたのか、何を失敗してきたのかを学ぶ必要性がある。それが未来につながっている。

都市部の親達が、これからの子ども(未来)に必要な教育(習い事)の話をしている中で、
自分たちがどれほど、今の社会の現状認識ができているのかの問い直しがなく、「みんながやるなら」「これまでやってきているから」「お金が高いなら良い教育なはず」などの理由で、必要性を語っている。

子ども(未来)を本気で考えるならば、今がどのような延長線上にあるのか、自分の子ども、自分はその延長線上のどこにいるのか等も認識しようとする必要があると思うが、自分の子ども(未来)起点ではなく、“みんな(世間)“起点のように感じる。

そこに、「なんで必要なんですか?」と問うてみようものなら、
は?という雰囲気がめちゃくちゃでる。

不必要だと言っているのではなく、便利になってあらゆるものが自分だけでは作り出せない、省略された世界において(これだけ延長線上が見えにくい時代において)、なぜそんな簡単に必要性を決めて話ができるのか。

そこに疑問を持つことさえも、世間では覚悟がいる。

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