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ぼんぼん社長⑪ 幼少期~ 毎日note連続1039日目


皆さんこんにちは、ぼんぼん社長井上 剛典です。

これまで色々なぼんぼんのタイプや特性について書いてきましたが、いよいよ本題の私がどんなぼんぼんだったかについて書いていきたいと思います。


昭和48年5月に岐阜市に生まれ3850gの健康優良児として生まれます。子供の頃から神経質で、色々と育てにくい子供だったようですが神経質な性質はオーストラリア留学に行くまでは根強く残っていました。

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オーストラリアでおおらかになり、今のように楽天的になりましたがそれまでは結構細かいことを気にするタイプでしたね。

幼少期の頃は自分の家が人の家と違うという意識は無いので、もちろんぼんぼんという認識はなく、天衣無縫・天真爛漫と言えば聞こえが良いですが、わがまま放題育ちます。

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小学校の途中で我が家が普通ではないと気が付きますが、家政婦さん(当時はお手伝いさんと言ってました)がいるのがあたりまえで、誰の所でも家政婦さんがいて我がまま聞いてくれるのだと思っていました。


当時の我が家の家族構成と職業ですが、祖父社長・祖母副社長・父専務・母起業前の主婦でした。

小学校の頃には皆さん更に出世し、祖父会長・祖母相談役・父社長・母社長となり、とにかく経営者の家というのが子供の頃からの感覚です。

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こういった家族写真は毎年定例で撮っていましたが、これもぼんぼんには定番ですよね~


家にはお客さんも多いので広い応接間があり、シャンデリアやクリスタルの灰皿、大理石のたばこ入れやマントルピース(飾り付けの暖炉)があったのを覚えています。

マントルピース・絵画・高そうなツボかお皿が応接間にあるのがぼんぼんの基本セットで、小学校の頃はその価値もわからず平気でその周りで遊んでましたね。

あとは趣味になりますが、猫足の家具や中国っぽい屏風、段通の絨毯などもお約束で、なんかキラキラした置時計も必ずあった気がします。

こういった調度品があり、家政婦さんと運転手がいれば王道のぼんぼんセットですね。


私の記憶のあるころから家政婦さんは常にいてくれて、運転手さんも祖父が社長の時代は常にいた記憶があります。運転だけでなく家の雑務も色々とお手伝いいただく頼れる存在でしたね。

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当時祖父はプレジデントという車に乗っていたのですが、後部座席に乗るとふわふわして車酔いしたのであまり良い記憶がありません。


会社が家の隣にあり、何かあると会社内に入ることもあったので「経営者」になるというのはとても身近なことで、子供の頃から大人になったら「社長」になると決めていました。

そのきっかけが祖父の仕事を見ていたからなんですよね。

威厳があり、社員の皆さんがついてくる様子を見て純粋に社長はかっこいいと思ったのと、ハンコを押しているだけで給料が多くもらえる「楽な仕事」だと思っていました。

この「楽な仕事」という勘違いが私を最近まで苦しめていたのですが、多くのぼんぼんが勘違いしていて、仕事を舐めているんですよね。


先代までの血のにじむような努力があって今の会社があるのですが、そのことがあたりまえだと勘違いし、自分の能力のように勘違いしています。

私もふくめ、多くのぼんぼんが社会不適合者で、家業の会社を継ぐしか出来ないので社長をやっている方もよく見かけます。

そんなダメダメなぼんぼん社長に寄り添い「二代目社長の伴走者」としてサポートしていくのが私の仕事だと思っています。


皆さんも、そんな勘違いしたぼんぼん社長を見かけたら優しく見守ってあげてください。

今日の一言
ぼんぼん社長は全部自分のおかげだと勘違いしている
ぼんぼんあるある
・写真館で家族写真を毎年撮る
・家政婦さんと運転手さんがいる
・応接間にはマントルピース・絵画・高そうなツボがある

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