台湾 Ⅰ
はじめに
そもそも、一般人が一国を語るなど、大変おこがましいことです。
私は若い頃、経験主義者を名乗っていたので、じっくり机に座って本を読んだり勉強したりすることは、大変苦手でした。
しかしあるきっかけから、「なぜ?」という疑問が「なるほど!」という答えになるまでの「過程」にハマり、それが楽しくなってしまいます。
それは幼い頃「なぞなぞ」を解いた時の、あの爽快感のようなものです。
気が付いてみれば、疑問が疑問を呼んで、もしくは、勝手な妄想が妄想を呼び、納得行くまでパソコンで探したり、本を読んだりするようになりました。
特にその謎解き作業は、情報化社会という時代背景が応援してくれたようです。
ありがたいことに、わざわざ図書館に出向いて調べなくても、目の前にあるノートパソコンが上手に案内してくれて、「ドラえもんのポケット」のように私を満足させてくれたのです。
なかでも「地理とか歴史は、嫌いではないけど・・」程度のレベルだった人が、今では世界地図と高校の世界史教科書を片手に、机の上でその「謎解き作業」をしているのです。
また同時に、その謎解き現場には、読んだ本が「積み木」のように積まれ、ある一つの単語にヒットするとその積み木を崩しつつ、その単語を「あさる」という、勉強嫌いからすれば想像すらできなかったことが、いつの間にか起きていました。
それも、全て50歳を過ぎてからのことです。
そしてその謎が解けた時の感動は、居てもたってもいられなくなり、それを残したいと思って「綴る」ことになりました。
結局ここに綴られていることは、そのような個人的な主観から出発しています。それはある意味、一つの「たわごと」かもしれません。
そしてその個人的な主観である「たわごと」も、固定されることなく、自由に変化し続けます。
しかし知った瞬間の感動は、まぎれもない事実であって、私の人生をも180度変えてしまいました。
そしてその「たわごと」たちは、今この瞬間も、私を幸せにしてくれています。
もしもそんな「たわごと」でも、皆さんの人生の出会いのきっかけになれるのであれば、そんな光栄なことはありません。
どうぞ皆さんにとって、今この瞬間が充実し、今日も素敵な一日となりますように。
1 銀杏の木
7月初旬の日曜日、スコールのような雨が地面を叩く。
こんな日はフォルモサ(ポルトガル語:麗しの島)と呼ばれる台湾を、静かに想う。
激しい音が遠ざかり、ふと家の外の木の葉に目を配る。
青々とした葉の上で、雨粒が戯れる。
ここに引っ越してから、ちょうど8年ぐらいになるだろうか。
あの頃マンションの5階から見えるこの木は、目の前を覆うほどこんな大きな木ではなかった。
その瞬間、この葉っぱを見て気が付いた。この木は、銀杏の木だったのか。
いつも目にしていたこの木は、常にここにあり、生活を共にしている大好きな木だった。しかしこの木が何の木かは、それほど強く認識していなかった。
結局この大好きだと思っていたこの木のことは、よく知らずにいたのだ。
生活を共にし、いつもそばにあったとしても・・
実存そのものではなく、自分の「認識」の外だったために、実は出会っていなかった。
次の瞬間、思わず目の前の銀杏の木に申し訳ない想いと共に、感謝の想いが込み上げてくる。
こうして自然であっても、人であっても、またそれが地域や国であっても、自分の認識や観点の枠に入らなければ、出会うことを失うようだ。
それは自分という認識や観点の枠が、出会っていると錯覚を起こしてしまっているからだろう。
家の前の木が何の木かわからずとも、大好きな「木」だと思っていたように。
いったい私は人生の中で、どれだけちゃんと、出会っているのだろうか。
そもそも「出会い」とは、何だろう。
ちょうどここ2年前から、この言葉の意味を深く感じるようになっていた。
それは家の前の銀杏の木のように、20年間以上生活している韓国のことを、勝手な思い込みの中に留めていたことに、気付いたことから始まる。
ごく一部の観点による歴史の薄っぺらな出会いから、長い歴史を通してこの地が経験し抱えてきたそれらの傷が、私の心にじっくりと沁み込んでいった時に、遂にこの地の涙を知り、この地との深い出会いができるようになったからだ。
それは出会った瞬間の「驚き」と、それまで出会うことができなかった自分の姿勢に対する「反省」と、それでも出会うことができたという「感謝」の想いがギュッと一つになって、はち切れんばかりの「感動」を産み出してくれたのだ。
そして今は何よりもこの「出会い」そのものに、すっかり魅了されてしまった。
今、目の前の銀杏の木が風に揺れる姿さえも愛おしく感じ、ほのかな感動を伴うように、「出会い」そのものがたまらなくなってしまった。
まさしくライフスタイル自体が、一瞬一瞬の出会いの連続であり、実は感動そのものだったのだ。
そんな中、魅力的すぎる「台湾」との出会いは、私を震わせた。
雨も上がって、日差しが照り始めてきた。
語り切ることなんか絶対できない「台湾」と、そのすべてに魅せられてしまった想いを、少しずつ綴ってみよう。
2 初めての訪台
初めて台湾を訪れたのは去年の1月、タイとシンガポールの出張帰りに2泊だけの一時滞在であった。
あの時、桃園空港から乗ったタクシーの運転手さんに、台湾総統選挙ついて尋ねてみた。今思うと、あまりにもぶっきらぼうな質問だったかもしれないと、少し反省している。
運転手さんにとっては、同時通訳アプリの機械音はやはり聞き取りにくかったようで、何度か再生しながら話してくれた。
ついでに信号待ちの時にメモ帳とペンを取り出して、お互い理解可能な漢字を使って表記しながら、丁寧にハンドルの上で話してくれた。
当時、私の頭の中にはただ「民主化」という単語だけが浮いていた。この地における「民主化」という単語の意味するものが、どういうことなのかも知らずに。
またその時、泊まったホテルのフロントの若い女性の対応が、とても優しく丁寧だったことが忘れられない。日本の商業的なサービスよりも、心のこもった「おもてなし」を感じた。日本からの観光客なら、誰でも一度は思うかも知れない。もしかしてここは、日本以上に日本ではないだろうかと。
翌日、日本人向けのバス観光ツアーに一日便乗した。本当はしっかり準備して希望する所を回ってみたかったが、準備が間に合わなかったこともあり、一般ツアーに参加してみた。
全世界どこでも感じることだが、ツアーというものは同じ課題を持っている。
まずは主催者の計画に合わせて、時間に追われながら有名なところに行き写真を撮って、有名といわれているものを食べ、その他いろいろな経験をしたとしても、ショッピング時間だけはただ長く、まるでベルトコンベアーに乗せられたようなツアーという名の時間内移動。一部流行りのアイデア商品があるけれど、本質的には変わらない観光産業の限界を感じさせてもらえた。
このツアーを通して、私たちが目指す「全世界各地域が持つ感動ストーリーである歴史が、自分のライフスタイルに溶け込む教育観光」の価値と、その明確な差別性を確信することができた。
ただ一つ、この時行った故宮博物院には驚いた。そこには中国の悠久の歴史5000年間が、あったからだ。まさしく中国のエキスも、この台湾にはあった。
次の日、出発までの時間に、台北の街を散歩してみた。
この街全体が、歴史を語る博物館のようで、情緒漂う台北の街にすっかり魅了された。
そして、どこからともなくこの地の「涙」が深いところから感じられ、居た堪れない想いと共に心が震えた。 その震えは、今も止むことを知らない。
3 海国図志
「台湾に行きたい!もっと、アジアを知りたい!」
メモに書き留められたこの文字から、当時の余韻が感じられる。
台湾との出会いは、約2年前、一冊の本にあった一つの単語から始まった。
あの時はちょうど、西欧列強が植民地支配によって東洋を侵食する過程において、近代国家日本の変容と共にアジア諸国の心痛い歴史を、韓国を通して出会い始めていた時だった。
そもそも欧米に憧れイギリス留学を考えていた私は、あるきっかけで方向先がアジアの、それも日本の隣国である「韓国」になり、通算20年を越える中、生活の中で西欧を意識することなどはほとんどなかった。
それもあのイギリスを始めヨーロッパ諸国やアメリカなどが、19世紀に帝国主義の下「植民地政策」によってアジア諸国を蹂躙していたことは、歴史の教科書で勉強し試験のために暗記したとしても、一般生活の中で意識し感じることは一切なかった。(これが、暗記教育だが・・。)
西欧列強たちは近代化を掲げながら、東洋を植民地化していた。
特に19世紀前半は中国・台湾・朝鮮半島・日本を除くアジア諸国のほとんどが、西欧列強の植民地と化した中、1840年清とイギリスとの間で起こったアヘン戦争は、これらの地域に西欧列強の脅威を見せつけることになった。
この戦争を通して初めて西洋が東洋と激突し、その結果西洋を主導とした帝国主義や国民国家という国際システムの中に東洋が組み込まれていくことになり、遂にアジア全体が激動の時代を迎えていく。
当時そのような状態でも華夷秩序を捨てきれなかった清は、アヘン取り締まりを主導した林則徐のブレーンである魏源が著した『海国図志』という、東アジアにおける初の本格的な世界紹介書を活用しきれずにいた。
同じく朝鮮王朝下でも、外交官の朴珪寿パク・ギュスなどにこの本が読まれてはいたが、公論化や一般化されることなく、国家的な危機を意識する段階までには至らなかった。
一方日本では、1854年にこの本が流入され翻訳版となり、明治維新までには爆発的な関心を各地で集めて、世界秩序の流れや対処方法の参考書として定着し(「九龍浦に住んだ」ジョ・ジュンイ著からの引用)、中でも吉田松陰などが幕末における改革を盛り上げる一翼を担うことになる。
結局、林則徐の抱いた西欧列強への危惧は母国である大陸ではなく、極東の島日本において活かされることになった。
特に『海国図志』の中で魏源は、「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことで、その侵略を防御するという思想を明らかにしている。
それらの国は、この一冊の本との「出会いの違い」もあったようだ。
当時明治政府は、西欧列強からの切迫感と危機感の中で、人も、モノも、土地も近代国家「日本」に変容していく中、朝鮮半島を35年間、台湾を51年間、現在ロシア領サハリンの南樺太40年間を領土とし、中国大連市の南半分であった関東州は30年間、日本の租借地とした。
既存のどんな主権や国であっても、他の地域や国を領有して、そこの民族を強要し植民地化することなど、人間の尊厳からすればあってはならないことである。
「特に植民地支配する手法は、常に【分割統治】であって、
その土地や地域の人々が、自ら分裂を広げていき、
それらの地域の人々と、一体感を割くという方法だったのだ。
それは、この手法こそが支配する側にとって最もリスクが少なく、
最も効果的だったからだである。」と、以前読んだ本にこう書いてあった。
支配する側にとって最もリスクが少なく効果的なのが、支配される側自らが分裂を広げ、一体感を割くという方法だという。
「分割統治」確かにそれは統治する側にとって、これほど楽なことはないだろう。
それでは、帝国主義における西欧列強の手法が、当時のアジアに与えた影響とは。
そしてそれが今でも、継続されているとすれば。
先日、韓国の統一研究院の院長の講演の中で「アメリカ・中国・ロシア・日本などは、韓半島の統一は願っていない。統一は私たち一人一人が、南と北を一つとして考える意識を常に持つことから始まる。」とし、熱く民間への啓蒙を促していた。
また、2017年6月30日付けの産経新聞には、中米パナマが台湾との断交と中国との国交樹立について「『アジアの孤児』台湾の悲哀に日本は寄り添うべき 歴代の知恵忘れた中国の露骨な『いじめ』は逆効果」という記事があった。
ちょうどこれらが、現在のアジアの姿であり、各地に今でも存在する「アジアの涙」なのではないだろうか。
特に今回「アジアの孤児」という言葉に、大きな衝撃を受けた。
台湾の作家である呉濁流が、1948年に描いた「アジアの孤児—日本統治下の台湾」という小説や・・・
1980年代に台湾のロック歌手である羅大佑が、当時台湾の人達の琴線に触れ大ヒットした「アジアの孤児」という曲が、あったことを知った。
フォルモサと呼ばれる美しい島「台湾」が、アジアの孤児だというのか。
では、いったい「アジアの孤児」とは何か。
そして、「アジアの涙」とは何だろう。
今、遥かなる歴史を超えて「尊厳」そのものの「台湾」と、出会う!!
4 中華民国と西欧列強
南北に細長い台湾は九州より少し小さめで、ほぼ中央を横切る北緯23,5度の北回帰線を挟んで、北が亜熱帯、南は熱帯地域に分布される。
亜寒帯の北海道では、韓国や本州の広葉樹とは違う針葉樹林を見ながら、より北の厳しさを感じたが、ここ台北の上空から見える南国の木々を通して、今度は亜熱帯・熱帯の南の厳しさを想像してみた。
南北に走る5大山脈には標高3000m以上の山が100を越え、中でも東北アジア最高峰と呼ばれる標高3952mの玉山(ユイシャン)は、積雪が観測されることもあるという。
ちなみにこの山は日本統治時代、富士山よりも高いので「新しい日本最高峰」とし新高山(にいたかやま)と呼ばれたが、一方その周辺の住民であるブヌン族による抵抗運動は終戦まで続いたという。
また1941年12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる大日本帝国海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」のニイタカヤマは、この玉山(ユイシャン)のことである。
複雑な想いを抱えつつ、逸る気持ちを抑えながら入国の手続きをする。
どこの国でもイミグレーションには、厳つい男性が無機質にスタンプを押すようにみえるが、たまたまなのかここ台湾は、ホテルのフロントのような若い女性が優しく丁寧に対応してくれる。
言葉の通じない所に一人で来る者にとっては、ほっとさせられる。
そんな安堵感もつかの間、すぐ左には「中華民国 入境」の文字が見えた。
そう、ここは「中華人民共和国」ではない、「中華民国」の台湾なのだ。
数日後あとを追って中華航空(チャイナエアライン)に乗り入国した、韓国で一緒に仕事をする同僚が「中華航空は中国のではなく、台湾の航空会社だった。」と言っていた。
私は今まで、「中華」=「中国」だと思っていた。
人にとって認識の外(=無知)が、勝手な思い込みを創り、虚像を生むようだ。
しかし今では、この無知であることに気づくことは、爽快さや感動を伴うようになってしまった。何故ならばそれは、新たな出会いの始まりでもあるからである。
ではなぜ、「中華民国(台湾)」と「中華人民共和国」があるのだろう。
中華民国は1912年孫文を臨時大統領とし、中国大陸の南京で成立した共和制国家である。(この時から276年続いた清は、完全に滅亡した。また現在台湾では、この年を元年とする中華民国歴を使っている。)
1917年ソ連は共産主義革命を成功させ、レーニンが1919年に「コミンテルン」という共産主義政党による国際組織を設立し、世界各国の共産主義運動を指導し支配した。
中国で1919年に起きた五四運動(抗日・反帝国主義・反封建主義を掲げる大衆運動)に刺激を受けた孫文は「中国国民党」を結成し、のちコミンテルンの働きを受けて1921年に生まれた「中国共産党」と提携し、1924年中国国民党一全大会を開催して「連ソ・容共・扶助農耕」の三大政策を提起、国民革命を推進した。(第一次国共合作)
孫文死去後1925年、国民党内に共産党との合作を排除する右派が台頭する。
1927年に孫文の後を継ぐ蒋介石が上海クーデターを起こし、共産党勢力を排除して「南京国民政府」を創設した。蒋介石はその後、欧米の圧力や浙江財閥との関係により反共主義者となり、日中戦争(支那事変)勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先し、1930年から共産党に対し5次にわたる大規模な掃共戦を展開する。
一方ソ連の支援のもと、毛沢東が指揮する共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。
1934年の第五次掃共戦までは、国民党の圧勝だった。 (第一次国共内戦)
1936年反共より抗日を優先しようとした張学良による「西安事件」が起こり、これを契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあって国民党との合作に活路を見つけた。その後、日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」が契機になり、国民党と共産党は緊急事態における一時的な統一戦線となった。(第二次国共合作)
ちなみにこの両党は、日本軍との戦いの時には、米ソからの援助を受けていた。
日本と敵対関係にあったソビエト連邦は、共産党中国支部の設立を支援し、コミンテルンを通じて中国の共産化政策を強力に押し進めた。
また日本の伸張に危機感を持ったアメリカは、蒋介石の妻の宋美齢によるルーズベルト大統領への強い働きかけにより、国民党軍に武器や軍事顧問の派遣などの援助を行ったほか、日本との開戦後には共産党軍にも武器などの軍事支援を行っていた。
そして日本の敗戦後1945年~1949年には、「国民党軍」と「共産党軍」が再び対立した。(第二次国共内戦)
共産党軍は、東北に侵入したソ連軍の支援を受け、徐々に南下し国民党軍を圧迫した。日本軍の前面に立って戦力を消耗した「国民党軍」と、後方で力を蓄え巧みな宣伝活動で一般大衆を味方にした「共産党軍」の戦いは、1949年に「共産党軍」の勝利で終わり、大陸では「中華人民共和国」の建国を宣言した。
一方、 敗れた「国民党軍」総統である蒋介石は、200万人の軍人と共に台湾に「中華民国」を撤退させ、台北を首都とする一党独裁政権を成立させた。
実は終戦前、蒋介石率いる国民党政府は、1943年のカイロ会談(ルーズベルト・チャーチル・蒋介石)における取り決めを根拠として、翌年台湾調査委員会を設立し、接収の準備工作を展開した。
また1945年2月のヤルタ会談(チャーチル・ルーズベルト・スターリン)では、 米ソ両国は台湾について、カイロ会談で決定していた「中華民国」への返還を改めて確認していた。同時に朝鮮半島は連合国の信託統治とし、第二次世界大戦後北緯38度線を境に南側をアメリカ、北側をソ連へと分割占領にする事を決定していた。
このように今現在のアジアの姿は、既に当時の西欧列強であるアメリカ・イギリス・ロシアなどの構想上にあったということなのだろうか。
5 1919年
もう一つ、この頃の西欧列強の全体の動きを明記しておこう。
歴史学者たちは、1919年に視点を置いている。
それは何かの終わりであり、同時に何かの始まりであるという歴史の転換点の一つだからだという。
1919年は第一次世界大戦の後始末である「パリ講和会議」が開かれ、「ヴェルサイユ条約」が結ばれた決定的な年である。この立役者はアメリカのウィルソン大統領だった。
その講和条約はイギリス・フランスの強い要求で、敗戦国であるドイツに軍備縮小と多額の賠償金が課され、ドイツの海外植民地はすべて没収された。
講和会議の結果、ドイツ・オーストリアの支配下におかれていた地域では、ウィルソンが提唱した「民族自決の原則」のもと、多くの独立国が生まれていった。
しかし戦勝国であるイギリスやフランス・アメリカの領土では、この原則が反映されず独立国が生まれなかった。
一方ヴェルサイユ条約で創設することが決まっていた国際連盟が1920年に誕生し、「国際連盟の父」となったウィルソンは一連の功績により、ノーベル平和賞を受賞している。
しかし、アメリカ自体は上院外交委員会の委員長ロッジが「アメリカ外交の原則は孤立主義であり、外国の紛争に巻き込まれないことが大事である。」と主張し議会の反対によって、国際連盟に加盟しなかった。
1920年の国際連盟創設時、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となり、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸稲造が事務次長の一人として選ばれた。
ちなみに新渡戸稲造は、同郷の後藤新平より2年越しの招聘を受け、1901年札幌農学校を辞職し台湾総督府の技師に任命された。
臨時台湾糖務局長となり児玉源太郎総督に意見書を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献。
その後、1903年には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。
そのような経験をもとに、新渡戸は国際連盟の規約に「人種的差別撤廃提案」をして過半数の支持を集めたにもかかわらず、準備段階であった当時議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により、この提案は否決されている。
こうして「ドイツ」への経済的な賠償請求の重たさと、「日本」への列強による影響や、1924年アメリカの排日移民法は国内の反米感情を産み、太平洋戦争へと突き進む遠因となったともいわれる。
その他、歴史の転換点である1919年に世界で起きたことには・・
ドイツでは、当時最も民主主義的な憲法といわれた「ワイマール憲法」が発布され、イタリアではムッソリーニがファシスト党を結成し、ロシアではコミンテルンが結成され、ハンガリー・ルーマニア戦争が起きた。
一方アジアでは、第一次世界大戦中インドがイギリスへ戦後の自治を約束するということで戦争協力をしたが、戦争が終わるとローラット法という民族運動弾圧法が施行さている。また、パリ講和会議の「民族自決の原則」が刺激となって、朝鮮半島では三一運動が起こり、中国では五四運動として爆発した。
このように1840年アヘン戦争から始まった、西洋対東洋の流れは・・
西洋中心の一方的な国際システムの中に、東洋がすっかり巻き込まれていってしまった。
西洋が創った帝国主義・資本主義・自由主義・社会主義・共産主義・民族主義・全体主義などの概念は、ただの「観点」にしか過ぎないのに・・・
人類歴史上これら「観点」によって、人間一人一人の尊厳が、いったいどれだけ蹂躙されてきたというのか。
今この東洋全体が、アジアの涙や人類の尊厳の叫びと一つになって
西洋をも抱きかかえつつ、新しい時代を切り開いていく時が、遂に来たのかもしれない。
6 台湾総統府
常に心の痛みを伴侶にしながら、台北の街を散策する。
レトロな情緒が漂う中、奥深い活気を感じさせる台北の街が、私は好きだ。
今回は大変運がいいことに、総統府と台北賓館が月に一回、全面一般公開される日と重なり、遂にこの念願も叶えられた。
美しいこの総統府と台北賓館は、建築を超えた芸術作品としか言いようがない。
総統府で使われている木材はすべて台湾ヒノキで、ちょうつがいやドアノブなどは銅だという。
また台北賓館の洋館には高級なケヤキの寄せ木張りの床などもあり、些細なところにも配慮が行き届いている当時の最高技術に、すっかり堪能させられた。
この時、思った。
総統府や台北賓館こそ、台湾のプライドである!
この歴史的貴重な存在を大切に守り抜いて来た、この台湾の方々の宝である!と。
日本統治時代、同じくソウルに建てられた朝鮮総督府などの建物は今ではない。
それは植民統治という状況下において、民族の感情に多々触れるものでもあるので、ある意味当然なことだろう。
しかしそんな感情さえも乗り越え、大切に保存し守り抜いたという、台湾の方々の強い意志に感服させられる—。
もしくはこれらの建築物を守らざるを得ない、もっと他の理由があったのかもしれないが・・・。
また、もう一つ、総統府で出会った光景の中で、今でも目の裏に焼き付いて離れないワンシーンがある。
それは、地方から来たと思われる、一人の男の子の姿であった。
その日はちょうど土曜日だったので、学校も休日なのだろう。
10歳ぐらいのその男の子は、お父さんの説明を真剣に聞きながら、目を輝かせつつ一生懸命展示物を見ていた。
その瞬間、この子を通して、この島の「プライド」であり「尊厳」を観た!!!
そして同時に、こんなことを想った。
もう二度と、同じ失敗は繰り返せないと・・・
大人である私たちが、この子たちに恥じることがないように・・
主体的に新しい時代を切り開くことができる、大アジア人でありたいと!
7 特別展
今週一週間、降り続くだろうこの雨は・・・
きっと、台湾の涙であり、アジアの涙なのかもしれない。
台北市内には、1955年に設立された最初の博物館である、国立歴史博物館がある。ここは所蔵約6万点にも及び、悠久の歴史の世界へとゆっくり浸るには適切な環境だ。
隣接している「蓮池」を含む植物園や、日本住宅の伝統様式である書院造りの和室と枯山水庭園がある「南門町323」などは、歴史散策の世界へと深く静かに案内してくれる。
故宮博物院でも思ったが、中国大陸の5000年間といわれる歴史の証拠品たちにはとにかく圧巻だ。ここ台湾にある博物館の常設展はもちろん、特別展のクオリティの高さや豊富さなどには、常に驚かされてしまう。
特に今回、故宮博物院の「翠緑の辺境—清末南西部の境界条約と地図」では、大変貴重な特別展示を観ることができた。
その展示は「国境は異なる政権の地理的範囲を定めた境界線であり、国際問題が起こりやすい地域でもある。中国とベトナム、中国とミャンマーの国境線は合わせて2400kmを超え、清代末期より衝突が絶えなかった。」と始まる。
そこには清代末期清朝政府が、フランスやイギリスと締結したベトナム、ビルマ(現ミャンマー)との境界条約、及び広東−ベトナム、広西−ベトナム、雲南−ベトナム、雲南−ビルマの境界線を定めた地図を含む数多くの資料があった。
これらの資料は境界の紛争問題に関わり敏感な内容のため機密扱いとされ、公開されることが今までなかったという。
清朝時代ベトナムとビルマは中国の属国であったため、境界を定めることはしなかったので曖昧になっていたのを、フランスやイギリスがこの「境界線」を引いたという証拠物でもあった。
ここでも西欧列強の手法が、確認させられた。
「国家とは、一定の領域に定住する人々が作る政治的共同体である。国家の形態・役割は歴史的に異なるが、一般には、近代の国民国家を指し、主権・領土・国民で構成され、統治機関を持つ。」(大辞林 第三版から)
他から来た「主権(統治者)」によって、今までなかった境界線を引かれることにより「領土」として規定され、同じ民族であったとしてもその境界線を挟んで両側は、まるっきり違う「国民」として規定され近代「国家」が創られた。
西欧列強のフランスとイギリスが、中国・ベトナム・ミャンマーを規定したように、またアメリカとロシアが、朝鮮半島を38度線で韓国と北朝鮮と規定したように。
またその反対に、「領土・国民・主権」といった条件を満たしているにもかかわらず、周辺国家との関係などによって独立を果たすことができない「未承認国家」が、世界には台湾を含め十数か国ある。
このような、西欧列強の近代化の波による「国家」という一つの観点によって、それらの地域や国と、住民たちの「尊厳」が、蔑(ないがしろ)にされてしまっているのではないか。
8 二二八和平公園と記念館
雨が小降りになってきた。
この地の奥深いところからくる、尊厳の叫びに・・・
時には優しく励まされ、時には期待に押しつぶされそうになりながら・・
次に、二二八和平公園に向かう。
この公園は、1913年日本統治当局が都市計画によって台北新公園となった。
その後日本が敗戦し、中華民国に接収された後の1947年2月28日に起きた、国民党政権(外省人—在台中国人)による、長期的な民衆(本省人—台湾人)弾圧の引き金になった事件によって、犠牲になった台湾住民を追悼するために1996年2月28日に記念碑を建立し、ここを二二八和平記念公園とした。
この事件は、闇タバコを取り締まっていた国民政府の役人が、市民一人を射殺したことから始まる。これは台湾民衆自らにおける「民主の実現」と「人権の追求」でもあったが、その後1949年から38年間、戒厳令下の白色テロ時代を迎えることになる。ちなみにこの戒厳令は、20世紀を通じて世界最長といわれている。
そして今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、1992年に刑法を改正し言論の自由が認められてからのことである。
実はその「民主化」の実現から、まだほんの25年ほどしか経っていない。
その言葉の深い意味を感じながら、公園の端にある記念館に向かった。
ここは1935年日本統治時代に設立された台湾ラジオ放送局で、事件発生時その事実を台湾全土に伝え人々に行動を促したという、歴史的な役割を果たした場所だ。
とにかく歴史的な場所や建物は、ほぼ日本統治時代と関連があるようだ。
常に胸が引き裂かれそうになるが、全てを直視することから始めよう。
始めの展示の中では、日本統治時代の1921年~1934年にかけて台湾の知識人は、日本総督府に15回にわたる議会設置請願運動を行っていた、ということを知った。
これら一連の文化・政治・社会運動を展開することで、民衆に対し自由・民主・人権に関する概念の啓蒙を行い、それが事件発生の伏線となっていたという。
そして1927年には、「台湾民衆党」の設立大会が行われ、台湾史上初の合法的な政党が誕生。わずか半年のうちに台湾全土で15の地方党部が創られたが、その奮闘は3年7か月で終わっていた。
調べたところによると、1945年4月に改正された衆議院議員選挙法によって、台湾と朝鮮にも帝国議会の議席が与えられ、選挙によって外地からも衆議院に議員を送ることが出来るようになったのだが、これは敗戦のため実施されずに終わった。
また1943年貴族院でも台湾と朝鮮から勅撰議員を選出することが決められ、台湾、朝鮮合わせて10名の議員が選出された。
ちなみに1932年には、唯一韓国人として、朴春琴が衆議院議員に選出されていた。
9 歴史教科書
ここで一冊の本、台湾の中学校歴史教科書を紹介したい。
(以下、台湾国民中学歴史教科書「認識台湾」の日本語翻訳版「台湾を知る」からの引用)
「1997年の台湾で、大きな話題になった一つが、初めての台湾史教科書(国定)、つまり本書の登場である。
『初めて』というと日本人には意外かもしれないが、実は台湾の学校教育で、これまで『本国史』として教えるのは中国大陸の歴史だけだったのである(『本国地理』も同様)。
台湾の歴史といえば、せいぜい大陸史を語るに際し、必要に応じて若干触れる程度で、体系的には全く教えてこなかった。
何故なら戦後に大陸から移ってきた政権による統治下では、『中国化』という同化政策が推し進められ、台湾史などは一地方史に過ぎず、さらには同化政策に支障をきたしかねないとして、有害視すらされていたのだ。(略)
さて台湾では、初の台湾人総統が登場してからの約10年来、政治や社会の民主化が進められているが、この国における『民主』とは文字通り、台湾の『民』がよその土地から来た政権の統治から脱却し、初めてこの島の『主人公』になったことを意味している。
それだけに『民主化』には、常に『台湾化(本土化)』の色彩が伴っている。
そうしたなか、国民の間では、『台湾意識(本土意識)』が高揚し、新たな国民的アイデンティティの確立を求める声が高まっている。
そして新たな「国作り」を支えるものは、やはり誇りある国の歴史であることが認識されるに至った。
しかし人々は台湾史について驚くほど何も知らされていなかった。」
今からほんの20年前に、初めて、台湾の歴史教科書ができた。
また、この教科書は「高々400年の、しかも外来者に統治されてきただけの歴史の、いったい何を誇ろうというのか。」と始まり・・
「本書では『多元文化』『国際性』『対外貿易の興隆』『克苦奮闘の精神』の4点を『台湾史の特色』として強調している。
つまり本書が明らかにする歴史は、大陸国ではなく海洋国として発展し、今後もそのように活路を求めざるを得ない台湾の、自己認識の為の鏡であり、未来への指針にほかなるまい。
また、『多元文化』の称揚にも注目したい。これは『一元文化=中華文化』信仰からの脱却であり、原住民をも尊重した、漢民族中心主義との決別である。
さらにオランダや日本などの支配下で受けた他民族文化の影響も、事実は事実として受け入れようとする姿勢の表れでもある。
この一点に関し、一部の大中国主義的な研究者から、激しい非難の声が上がったことも参考までに記しておく。」とあった。
この台湾の教科書を通して、歴史は創っていくものであることが、明確になる。
そして、日本植民統治時期については・・・
「従来の教科書はこの時代について『日本の残暴統治50年』(96年発行「国民中学歴史・第3巻」)といった一言で片づけ、その実情についてはあたかも存在しなかったように、何も取り上げてこなかった。(略)
本書ではこれを初めて取り上げ、しかも2章立てで、全体の4分の1と、戦後史と並びもっとも多くのページを割いている。
しかも記述は公正にして的確であり、他の近隣諸国のように、反日政策に基づいた歴史の書き換えは見られない。」とあった。
また「台湾人(特に老世代)は確かに親日だが、果たして本書は「媚日」といえるかどうか。」とし、この時代に関する内容は、大きく分けて2つの流れがあるという。
一つ目は、日本(台湾総督府)に対する台湾人の抵抗についてである。
まず「武装抗日」は、「人々の果敢な戦いぶりがとくと語られ、民衆の英雄的行動を叙情的に描いた唯一の下りといえよう。」とし、「台湾人の自尊心の表れとして見てもらいたい。」とあった。
また「社会運動」の記述では「林献堂や蒋渭水などの人物が登場している。今後これらの偉人は、鄭成功など『中国の英雄』とは別の、従来公の形では存在しなかった『台湾の英雄(偉人)』として教えられていくのではないか。
事実、目下台湾では、忘れられた『英雄』顕彰の動きが、研究者によって盛んになっている。」とある。
話が前後するがこの記念館には、台湾の英雄である『林献堂』と『 蒋渭水』の写真が、台湾文化協会の第1回理事会の会員と共にある。
(前列左3番目ー蒋渭水、前列中央ー林献堂)
『林献堂』は台湾の民族運動の指導者で、在日台湾人留学生たちを後押しして台湾新民会を組織させ、台湾議会の設置の請願を15回提出し運動を起こし、台湾人の民族自決と民主意識を呼び覚ました。
一方、『蒋渭水』は台湾文化協会の指導者で、講演会などの活動を通して民衆に新しい思想と概念を教育し、農民と労働者の解放運動の先駆けとなった。
また、上記の歴史教科書の、日本植民統治時期についての説明の二つ目は、日本の統治政策についてである。
「台湾人に対する不平等待遇・警察政治・皇民化運動といった当時の政治の実相を、的確にポイントをおさえて書き綴っている。(略)
日本の功の面を覆い隠しては正しい歴史が見えてこないことを、良識的な研究者はかつての反日教育を通じて良く知っている。」として・・
日本の「功罪共に認める姿勢がみられる。」とある。
また「植民地経済」政策について、「農業改革面で語られる嘉南大圳の給水路は、全長で中国の万里の長城をも凌ぐ、いわば台湾の誇りだが、これも従来教えられてこなかった。
これを設計、建設した日本人技師・八田与一の名が見えるが、台湾の建設に並々ならない情熱を注いできた日本人に、多くの台湾人が好感を抱いていることを、日本の人々にはぜひ知ってもらいたい。」とあった。
また「もう一つ、ここで取り上げたいのは「社会の返還」の節目である。」とし、「中でも『時間厳守の観念の養成』『遵法精神の確立』『近代的衛生観念の確立』という節目を設け、それらに関する諸施策と成果を大きく紹介していることだ。
この3つの『徳目』こそ、支配階級だった大陸出身者に対する、台湾人の近代文明人としての、いわば最低限の証であり、密かな優越感をもたらすものだった。(略)
日本が欧米諸国の影響で近代化を果たしたと同様、台湾は日本からあまりにも大きな影響を受けながら近代化を吸収したということである。」とあった。
主観的判断の枠を超えて、客観的及び俯瞰的範囲で歴史をとらえ・・
後世に伝えていこうとする、台湾の知識人たちの新しいチャレンジに感服させられる。
10 画家 陳澄波
そう、今は記念館にいる。
「時代の変化」の展示では、戦後海外から戻ってきた台湾人が中心となって、植民地統制下で抑えられてきた自治運動が爆発し、いまだかつてない政治への参加の高揚になった。
しかし、それまで国語が日本語であった台湾人に対して、国民政府は国語(中国語:北京語)教育がまだ普及していないとし、台湾人の参政権を制限した。
当時の台湾人は、二つの時代にまたがりながら、二種類の言語と国旗そして二種類の身分を認めるという矛盾を、抱えながら変化していった。
同時に「二つ」を抱えながら、変化していくことが可能だとは・・・
歴史的にもあまりないことを、この台湾はしてきた。
そんな、台湾の無限なる可能性とは・・・・
アジアの全てを含むことができるという、尊厳そのものの「生命の隙間」なのかもしれない。
「事件の遠因」の展示では、戦後国民政府が台湾を接収すると、政府の役人は汚職や不正の限りを尽くし、軍や警察は法に背き規律を乱した。
インフレや失業も深刻化し、人々は政府に対して非常な感情を抱いていた。
それは「犬去りて豚来る」(犬〔日本人〕はうるさくても番犬として役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみで役に立たないという意味が込められている)という言葉で表現された。
また台湾人には平等な参政権がなく、この度の「祖国復帰」というものが台湾にもたらしたものは、日本と同じような統治機構だったという。
「事件の顛末」の展示では、事件勃発後、抗議する人たちはその事実を台湾ラジオ放送局から全土へ伝え、各地でも政府に対する不満が大きく膨れ上がり、民衆を抑えることができなくなった。
一方陳儀が大陸の蒋介石に、派遣を要請した国民政府援軍は、基隆へ上陸すると殺戮を展開し清郷という名の「粛清」と「鎮圧」が行われ、罪のない多くの人々が命を落とした。
この時台湾の多くの知識人たちも、軍の情報部に逮捕又は銃殺された。
その知識人の中には、画家の「陳澄波」もいた。
陳澄波の存在は、今回総統府一般公開時の、特別展示を通して知った。
(力ある絵に魅せられて、この絵本を買った。)
陳澄波は1895年、台湾中部の嘉義で生まれた。公費で通える国語学校師範科に入学し、ここで出会った美術教師の石川欽一郎を通して絵画の世界に目覚める。ちなみに石川欽一郎は、通算19年間台湾に在住して美術教育に携わり、台湾美術の父と言われている。
陳澄波は卒業後、美術への情熱によって教員をやめ30歳の時、東京美術学校に入学して帝展にも入選した。東京美術学校研究科を卒業後、家族の扶養のため上海の美術学校で教員となる。ここで中国画に関心を持ち影響を受けたが、上海クーデターが起き1932年台湾へ帰郷。
台湾で様々な活動を展開し、1945年日本の敗戦後は、嘉義市の役職に就く。
1947年事件が勃発すると事件処理委員会のメンバーとして国民軍側との交渉に当たったが、そのまま捕まり銃殺されてしまった。
この記念館には、陳澄波の最後の言葉があった。
12万の市民の囲いを解くため・・・
自らの死を賭して、民族の自由を得るため、
両親に恥じることは何一つない、
惜しむらくは目的を果たせずに死んだことだ。
総統府の特別展示にあった・・・・
陳澄波が最期に着ていた、銃弾の跡がある「受難著衣」が、脳裏から離れない。
11 一つの新聞記事
あれは、ちょうど2日前。2017年7月13日付けの産経新聞に「台湾・戒厳令解除30年『白色テロ』時代の解明ようやく一歩」という、見出しをみつけた。
そう、台湾の戒厳令が解除されて、30年になるという。
(以下、産経新聞の記事からの引用)
「台湾は15日、史上最も長い38年間の戒厳令が解除されてから30年を迎える。
戒厳令下の台湾では、政治活動や言論の自由は厳しく制限され『白色テロ』と呼ばれる市民の逮捕・投獄が横行した。台湾社会は今、中国や香港の人権抑圧を横目に自由と民主主義を謳歌する。だが、苦難の時代の真相解明は緒に就いたばかりだ。
台湾本島南東部・台東市の沖合約33キロに浮かぶ緑島。サンゴ礁で囲まれた外周約19キロの小島は夏場、ダイビングを楽しむ若者らでにぎわう。
島内には、かつての『政治犯』収容所が一般公開されている。」と始まり
きれいな緑島の写真が、その横にあった。
そしてその記事では、二人の証言者の話が続く。
「初期の収容所『新生訓導処』で過ごした張常美さん(85)は1950年、18歳で中部・台中の高等商業学校に通っていたある日の授業中、校長から呼び出され、そのまま台北に連行された。張さんは入試の成績が良く生徒会に入っていた。
訳が分からず泣き続ける張さんに、取調官は生徒会長が『共産主義者』だと告げた。言われるまま書類に拇印を押し、12年間を獄中で過ごした。
判決書に書かれていた60人以上の『共犯者』の名前は、誰一人知らなかった。
陳新吉さん(76)は22歳で兵役中だった1963年、突然部屋に入ってきた男6人に押し倒されて連行された。『台湾独立』運動の組織とされた『軍中互助会』の会員が高校の同級生で、食事をしたことがあった。
指のツメの間に針を刺すなどの拷問を受けて『何人を仲間に引き入れたのか』と問われ、無実の友人数人の名前を言ってしまった。
台北市内の収容所で5年の刑期を終えて実家に戻ると、母親は精神を病んでいた。今でも毎日午前4時半に目が覚める。銃殺される収容者が連行される時間だ。
当時は『次は自分かも知れない』と恐れた。」とあった。
ほんの30年前まで、美しい島「台湾」で、実際にこのようなことが起きていた。
この時、韓国の居昌(コチャン)の良民虐殺事件記念館や、済州島の4・3平和公園にある祈念館のことを思い出した。
あぁ、同じだ。あの時見たことと、まるっきり重なる。
それとまた、もう一つ思い出した。
そもそも私が、このように歴史に関心を持ち、世界史全体の流れを知りたくなってしまったきっかけは、現在東京に在住されておられるだろう一人のおばあちゃんが書かれた「言いたいことを言って死のう」という手記から始まった。
手記の現場が、現在私が住んでいる韓国の大邱であり、一人の普通の女性がある日突然、共産主義者としてのレッテルを張られることを通して、あまりにも壮絶過ぎた人生に、強い衝撃を受けたからである。
その手記には・・・
「1950年7月末までに、慶山(ギョンサン)清道(チョンド)など、大邱地方の保導連盟加入者1000人、大邱刑務所収監者2500人がコバルト鉱山で虐殺された、とある。(略)
数珠つなぎにされトラックで連れ去られた人たちは、その本の名簿には含まれていないはずだ……。人知れず闇に葬られたあのときの人たちの情報は、まだ明らかにされていないのではないか……。」とあった。
このようにアジアの多くの人達の心には、いまだ解決されていない傷が深く残っている。
台湾の国民党による本省人(台湾人)に対する民衆弾圧や、韓国の保導連盟事件などによる反共施策などは、西欧列強の国際システムである「国家」や「イデオロギー」という一つの「観点」による、人類の尊厳に対する暴挙なのではないだろうか。
再び、ここは記念館である。
展示「記憶の底」では、犠牲者や家族の証言から台湾の「民主」や「自由」がたやすく得られたものではないことがわかる。
また「反省と希望」では、民間と政府の努力によって、真相の究明、犠牲者の名誉回復、政府による謝罪、記念碑記念館の設立が促され、少しずつ実現していったとあった。
そして最後の展示では「国際人権の森」として、各国の歴史は比較することは難しいが、「歴史の傷に向き合う姿勢」や「平和と人権のための努力」において、他国の様子や方法を参考にすべきであると、終わっていた。
記念館を出ようとした時、また雨が激しくなってきた。
この台湾の涙、アジアの涙は・・・・止むことなんて、できやしない。
(台湾出発時、飛行機の窓の雨粒)
12 国づくり
国家とは何か。
近現代という時代を通して、人類は西洋から生まれた国際的な社会システムの中で、必死に生きてきた。
ここでもう一度、台湾の中学歴史教科書を、見てみよう。
「『台湾を知る』(『認識台湾』)日本語版刊行にあたって」の中の、「5、国作りの方向を示す」では・・・
「[台湾における中華民国]
近現代史を重視する本書は、戦後史に関しても2章を設けている。『台湾における中華民国(中華民国在台湾)』とは、中華民国の国号が通用しにくくなった国際社会で、台湾政府がしばしば代用している名称である。
全中国大陸を領有するとの建前とは別に、中華人民共和国の大陸領有という現実を、今や実際にはすでに受け入れているということだ。
従来の歴史教育では戦後時代を指して『光復後の台湾』(「光復」とは中国への復帰の意)と言っており、この時代呼称の変更にも、本書の台湾の主体性を求める姿勢が見て取れる。」
単語一つ、または助詞一つに関しても、どんなに注意を払いながら、この一冊の教科書が出来上がったのだろうか。
特に呼称や名前、または単語というものは、使用される中で創られた「観点」によって、ある一定の規定を伴ってしまう。それらは取り扱いが難しく、実はたいへん厄介なものでもある。
また何よりも、全中国大陸を領有しようという怨念にも似たような華夷思想や漢民族中心主義の「中華民国」は・・・
多様性に満ちた動きそのものの海洋民族である「台湾」に、無理やり重ね合わせようとしても、そもそも無理な話なのだ。
「戦後史を語る上では欠かせないはずの蒋介石総統については、わずかに触れられている程度で一葉の写真すらない。
いずれも当たり障りのない記述にとどめている訳だが、その背景にはさまざまな政治的配慮があったはずだ。
ただ『台湾=蒋介石』と考えがちな少なからぬ日本人は意外に思うかもしれないが、中国大陸的な個人崇拝の時代と、台湾人はとうに決別を果たしているという事実だけは認識してもらいたい。」
国づくりの過程において、主権は住民たちに国家の一員としての帰属意識(国民的アイデンティティ)を獲得させるため、共通認識のおける「歴史」の共有を促進させてきた。
今まで一方的に押し付けられてきた「中華民国」の国家概念として「歴史」ではなく、「台湾」そのものが持つ地理的な部分を含んだ俯瞰による「生きた歴史」を、周辺国家の特に歴史的関係性が深いこの日本が、新しく「認識し直す」ことは大変重要なことであり、これはお互いの国家の尊厳に対する敬意の表れでもある。
何よりも新しく「認識し直す」ということは、新しい「出会い」でもある。
その新しい出会いを通して、国家間における「可能性」も広がるだろう。
「全ては始まったばかりである。
少なくとも初めての台湾史の教科書が、これほどまでに真摯で理知的な内容をもち、なおかつ今後の国作りの方向性を示し得たことは、台湾の次世代にとっては幸福なことだと思う。
またこの訳書を通じて、多くの日本人が隣国台湾とその歴史に関心を持ち、そして理解を深めてもらえたらと考えている。」と、
「『台湾を知る』(『認識台湾』)日本語版刊行にあたって」の文章は終わり、本教科書の本文に入っていく。
このようにアジアの、生命の間である「台湾」では、
全てがやっと、始まったところなのだ。
13 フォルモサの美しさ
細雨さえも、心地よく感じる台北の朝。
一週間以上の訪台終幕の日に、愛おしい台湾との出会いを惜しみながら・・
公園内にある、国立台湾博物館に寄る。
ここは1889年に落成した台北天后宮(媽祖廊)の位置に、1908年に設置された博物館として、台湾では最も歴史ある場所である。
1915年博物館の新館が、日本統治当局の都市計画に基づき「児玉総督後藤民政長官記念館」として建設され、1949年台湾祖国復帰後「台湾省立博物館」になり、修復を繰り返しつつ現在の姿となった。
ちなみにこの博物館の初代館長は、川上瀧彌(たきや)だった。
札幌農学校出身の植物学者である川上は、「マリモ」を始め40数種類の植物を命名した人でもあり、新渡戸稲造の紹介で台湾に来て、台湾の植物調査と研究に尽くし、開館当時1万点以上の収蔵品を誇るこの博物館のために殉職したと、パンフレットには書いてあった。
亜寒帯地方から来た植物学者にとって、亜熱帯・熱帯地方の稀有な植物に出会った時の驚きと、その興奮を伴う感動は、いったいどれほどのことだっただろうか。
その溢れんばかりの想いはきっと強い原動力となって、寸暇を惜しんで研究に勤しんだに違いない。
この博物館は人類学・地学・動物学・植物学などを中心に展示してあり、それらの推進業務や収集と研究を主要方針としていて、台湾本土の文化やその歴史、生物の種類や自然現象などがある。
その中の「台湾史と諸民族」では、「台湾の原住民族は台湾島の多様で豊富な文化を語る上で、当館でも最も重要な収蔵特色である」とあった。
確かに約20部族に及ぶ原住民族なしでは、この台湾は語れないだろう。
また博物館には「16世紀から、オランダ人・スペイン人・漢民族・日本人が前後して台湾に訪れ、彼らが残していった歴史の跡も収蔵品によって確認できる。」とある。
ここでもこの台湾が、大陸の一元文化ではなく、海洋国としての多元文化であることがより明確にさせられる。
その時一番目を引いたのが、20世紀の初めにおいて「台湾抗日運動」のシンボルとなった「台湾民主国旗」についての映像だった。
1895年4月日中両国は、馬関条約を締結し台湾と澎湖を日本に割譲。
台湾の官民は再三にわたり清朝には挽回を、西欧列強には干渉を期待したが失敗に終わり自力救済する中で、5月25日「台湾民主国」を成立させたが、6月日本軍が進入し台湾統治の開始を宣布した。その後も、20年間にわたる武装抗日を行っていたという。
歴史を物語っているこの一つの国旗は、台湾のプライドではないだろうか。
次に博物館の「地質史と鉱物」では、1968年に基隆の外海で5億年の活化石というリュウグウオキナエビスが発見されていて、台湾で貝類研究の風潮が巻き起こったという。特に鉱石類の収蔵は世界でも珍しく、北投石と澎湖文石などの標本がある。
その時、特別展示として「福爾摩沙美石特展(Exquisite stones of Formosa)」が開催されていたが、その美石の素晴らしさに思わず息を呑んでしまったぐらいだ。
「麗しき島」の、多様性に満ちたこの美しさは・・・
長い航海を経てたどり着いたポルトガルの海の男達に、どれだけ心を癒すことになったろうか。
青い海に浮かぶ緑の島、フォルモサ。
この国の存在そのものが、まさに世界の誇りなのである。
14 アジアの四小龍
降ったり止んだりの雨の中・・
国立台湾博物館のちょうど向かいに、土地銀行展示館があることを知ったので、駆け足で入ってみた。
ここは1923年日本勧業銀行として建築され、台湾の金融の歴史を受け継ぐ重要な史跡で、戦後1946年9月に「台湾土地銀行」として設立された。
この展示館では、台湾近代の金融発展、土地改革、国家建設、経済成長の歴史過程が認識できるという。
ここで少し戦後の国際外交状況を、中学の歴史教科書から拝借してみる。
1950年に朝鮮半島で6・25戦争が勃発すると、米国は共産勢力の拡張阻止のため台湾との華米共同防衛条約が締結。
長期にわたり米国から軍事・経済援助が行われ、台湾は西太平洋地域における反共防衛線の一環に組み入れられた。
しかし1971年、国連が中華人民共和国の加入を受け入れたため、中華民国である台湾は脱退を宣言。翌年日本が中華人民共和国を承認し日中共同声明を行ったので、その他の国も相次いでそれにならった。
1979年には米国も中華人民共和国と国交を樹立し、華米共同防衛条約が破棄され、台湾は国際的孤立のショックに直面した。
実はこの内容は、ある著者の本に綴られていた。
それは彼が訪台時、ある夫人に「なぜ日本は二度、台湾を裏切ったのですか?」という質問を受けたという。
一つは、1945年の敗戦時と、もう一つが1972年の日中共同声明時である。
あの本を読んだ後から、ことばを失った著者と共に・・
私の脳裏にも台湾特有の雨が、ずっと降り続いている。
しかしそういう中でも、台湾は実務外交政策を採用し、経済的実力で中華民国の国際的地位を確保しようと努力し続け、国際組織に参加、活動することを外交方針とした。
柔軟性があって、しなやかながらもこの強い意志に、台湾の尊厳を観る。
このような背景のもとに政府は土地改革を実施し、経済建設計画を推進し、経済の自由化と国際化に尽力して、積極的に台湾経済の発展を促進した。
その土台を支えた一つが、この博物館に展示されている「台湾土地銀行」だった。
この展示館は、銀行の金庫だったところに「行史館」として展示されていた。
入るとすぐ「礼記曰く—土あればここに財あり、財あれば此れに用あり」から始まっていて、とても興味深い。また西洋と東洋の金融の比較と、「清代台湾」「日治時期」と時代の流れへと続きながら、「日本勧業銀行在台支店設立」と展示されていた。
金融に関する背景までもある、この博物館の展示は分かりやすいと思った。
日本植民統治後、土地銀行は、地主への地価保証金の交付と、自作農に地価を徴収する業務が指定され、国有農地の経営代行など、台湾農業の付加価値を大幅に向上させた。
このように政府における経済建設計画の推進によって、世界から経済発展の奇跡と讃えられた台湾は、「アジアの四小龍」として韓国・香港・シンガポールと共に列された。
このように多くの苦難に立ち向かいながらも、しなやかに乗り越えて来た台湾の人たちは、その土地に汗し、涙しながら一生懸命、生き抜いてきたのだ。
そのすべてを引き継いで、今もなお前進するその精神に感動だ。
15 ふるさと
大好きな台湾を知るようになってから、約2年が過ぎた。
しかしまだ、ほんの2年しか経っていない。
日本には70年以上かけて、台湾を愛し、懐かしむ人が約50万人以上いる。
そこには日本統治時代に、台湾で生まれ育った「湾生」と呼ばれる方たち20万人も含んでいる。
敗戦によって日本という「異国の地」へ強制送還された彼らは、日本人として生きながらも「異邦人」であることを感じつつ、半世紀以上台湾への望郷の念を心の奥深く大切に抱いてきた。
去年の2016年11月12日に「湾生回家」というドキュメンタリー映画が、東京の小さな映画館で上映された。
その映画には6人の湾生が登場し、晩年生まれ故郷を再訪した時のことを熱く記録に残している。
中でも一人の湾生が弟と引き上げ船の中で、水平線の向こうに台湾が見えなくなるまで「ふるさと」を歌い涙し続けた話は、台湾の若者の胸をも熱くしたという。
うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて 忘れがたき ふるさと
映画の原作者は、語る。
「湾生の物語は、人を愛し、土地を愛する話なのです。」と。
南国の人たちのゆったりした温かさと、太陽の光が燦燦と地面を照らすあの台湾のエネルギーは、一時的な訪問客さえも魅了し、すっかり溶かしてしまうほどだ。
まさに湾生のように、幼い時に触れた台湾の「すべて」は、意識と体内の中枢に鎮座するに違いない。
例えば私も、この韓国で生活して20年以上が過ぎた。
随時日本に帰国はするとしても、また直ぐに韓国に帰国したくなる。
私の中でいったいどちらが「帰国」なのか、わからない。しかしどちらとも帰国であることには、間違いない。
人間にとってのアイデンティティとは・・
イデオロギーを含むある一定の観点や、それら教育によって決まるものではなく
個人において「感動」を伴う実体験の中でこそ、形成されるのではないだろうか。
湾生たちにとっての「ふるさと」は、異国の地日本ではなく、愛する台湾なのである。
そこにはもう、国家という境界線は存在しない。
いや、境界線を引こうとしても、引くことができないのである。
16 無限なる可能性
人間の尊厳からすれば、「国家」とは・・
一つの観点によって、既に規定されているものではなく
常に多くの出会いを繰り返しながら、創られていくものであり、創っていくものであるということを、この「台湾」を通して確認させられた。
よって、その国づくりの為には・・・
より未来志向的な観点によって、新しい出会いによる「感動ストーリー」としての「歴史」を創っていくものであることも、同時に確認させられた。
そもそも、そのような「国」や「歴史」を創っていく、私たち自体も・・・
日々新しい出会いを重ねながら、今この瞬間も創っているに過ぎないのだ。
固定は一切ない、すべては動きそのものしかない。
比較不可能である、絶対的・客観的な一つの動きからくる、
人類共通の土台づくりは、部分や個における主観的独断の枠を超えて
個人においても集団においても、より合理的な、そしてより効率的な生産性をも生むに違いない。
何よりも、無限なる可能性である「人間の尊厳」は
一つの観点に、収まることなんかできるはずがないのだから。
今まで長い歴史を通して創られてきた「国家」や、その他の観点の枠の中に・・
無限なる可能性であり「尊厳」そのものである、この「台湾」が
治まることなんかできるはずがないのだ!
逆に、治まり切れなかったことこそが・・・
次の時代の方向性を、より明確にすることができる
人類の希望、そのものなのかもしれない!
しなやかさの中にも強い意志を持つ、アジアのプライドである「台湾」よ!
「麗しの島」としての本当の美しさを、無限大に発揮する時が、遂に来た!!
人類歴史の全てを抱きかかえつつ・・・
限りなく疎通・交流・循環しつづけていくことができる・・・
尊厳そのものによる、新しい出会いの教育と技術をもって
全世界全人類に、希望の種、愛の種、感動の種を届けに行こう。
猛烈な雨の中、台北上空の厚く鬱蒼たる灰色の雲を、一つの意志が貫いていく。
そこには、平穏なる太陽の光が、初夏の雲を照らし、熱く輝いていた。
完
2017年7月17日 nurico
≪参考文献≫
「台湾国民中学歴史教科書 台湾を知る」国立編訳館主編 蔡易達・永山英樹訳
「台北二二八記念館の常設展示特集」謝小韞発行 台北市政府文化局編集
「立ちすくむ歴史—E.H.カー「歴史とは何か」から50年」喜安朗・岩崎稔・成田龍一著
「街道を行く—40—台湾紀行」司馬遼太郎著
「日本の朝鮮統治を検証する」ジョージ・アキタ著
「구룡포에 살았다」초서 조중의/권선회(「九龍浦に住んだ」ジョ・ジュンイ著)
「紅色在唱歌」 絵:陳澄波 文:林世仁
≪参考資料≫
国立故宮博物院パンフレット
国立故宮博物院特別展パンフレット「翠緑の辺境—清末南西部の境界条約と地図」
総統府パンフレット
台北賓館パンフレット「台北賓館の物語 百年の旅」
国立歴史博物館パンフレット「精選 西蔵の文物展」
台北二二八記念館パンフレット
「『アジアの孤児』台湾の悲哀に日本は寄り添うべき 歴代の知恵忘れた中国の露骨な『いじめ』は逆効果」 産経新聞(2017年6月30日付け)
「台湾・戒厳令解除30年『白色テロ』時代の解明ようやく一歩」産経新聞(2017年7月13日付け)
ブログ「言いたいことを言って死のう」サダサチコ
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手記「ソウル」
手記「北海道」
手記「アジアの中の日本 シンガポール編」 他
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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡