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全てが愛おしく感じる瞬間。②国と国との間で

私の娘は3歳まで韓国で生まれ育ち、その後日本に行って小学校3年まで学び、それからまた韓国で生活しながら、大学は日本を選択し現在日本の大学院に通っています。大学以降の選択は娘の意志ですが、それまでの生活は全て親の事情によってでした。このように娘は、韓国と日本の二国間を行ったり来たりしながら生活したのです。


日本での小学校は新宿区内にある、1学年2クラスしかない家庭的な学校でした。クラスには中国人の男の子やフィリピンの女の子もいる、多国籍でオープンな学校だったので、私もすっかり安心していました。
しかし2年生のある日、一番仲良しの女の子が娘に「うちのお母さんが、韓国人のお父さんの子とは遊んじゃいけないって言われたの。だから、もう一緒に遊べない。」と、言われたそうです。その時娘に「お母さん、なんでお父さんが韓国人だと一緒に遊べなくなるの?」と言われた時は、どう答えていいかわかりませんでした。それから娘は、もともと本が好きだったこともあって、一人でよく本を読むようになりました。


そして韓国に来てから、今度はこちらの小学校に通った時のことです。ある日娘は友達から「教科書を貸して。」と言われて貸して、その戻ってきた教科書を開いたとたん、教科書の端にテープで張られたカーターナイフの使い古しが手のひらに刺さり、深い傷を負うことになりました。その傷は、今でも痕となって残っています。
実はこの話も娘が20歳になった時に聞いたことなので、その当時は知りませんでした。あの時は下の子が生まれた頃だったので、忙しそうに見える母親には心配させたくないという思いがあって、娘は言えなかったのでしょう。それ以外にも学校で、唾を吐きかけられたり、机の間から足を出して転ばせられたりしていたそうです。理由は、日本人だからということです。


日本にいても韓国にいても、韓国人だからとか日本人だからということで、いじめに合わなければならない娘に、母親として為すすべを失っていました。大人が作った社会によって、罪のない子どもたちがこんな目に合っているのです。同時に、これ以上のことがどれだけこの世に横行しているだろうかと考えた時、大人としてまた母親として「絶対にこんな社会を、変えなければ!」と、強く思わさせられました。


また、娘だけではありません。
韓国で生まれ育った、下の子(息子)が幼稚園の時のことです。
日本の統治時代に、16歳で拷問を受けて殺された独立運動家のユ・グァンスンの伝記を学んできた息子は「なんでお母さんは日本人なの?イギリス人や、フィリピン人の方が良かったのに・・。」と言いながら、幼稚園でいじめられた話をしました。
この時も、言葉を失いました。娘の時よりは時代が変わり、多文化家族に対する国の方針もあって、社会の変化を感じることはできましたが・・。
また小学生の時、習っていたテコンドーの2才上の男の子から「この、ウェーノム!(日本人を卑下する言葉)」と言いながらいじめられていた時は、ちょうど私がその現場を通りかかったので、その子に言い聞かせることができました。その時はテコンドーの先生に連絡して、武道における礼節などの真髄教育を指摘して、お願いしたことは忘れられません。
母親が知っているのはこの程度ですが、たぶん子どもたちはその他いろいろな経験をしたことでしょう。


例えば子どもが高熱を出して唸っている時、その状態を自分が代わってあげたいと思うのが親であるように、この両国間の犠牲になっている子どもたちの、その全てを私が代わってあげたいと思うのですが、悲しいことにそれができません。それは、あの子たちの祖国は韓国であり日本なのですが、私たち親はただ一方にしか過ぎないからです。
結局私にできることは、あの子達がこの問題を乗り越えることができるように、その土台を創っていくことだけです。5年前、私はある病気にかかって、ありがたいことにそれも大きなきっかけとなり、人生を懸けてこの問題解決のために生きていきたいと思いました。


そんな想いの中、素敵な出会いもありました。
まず夫の生まれ故郷の、一人の先輩に会った時のことです。その方の叔父さんは日本の帝国時代に慶尚北道方面の鉄道建設を任され、従業員には韓国人はもちろん日本人もいて、当時はとても活気ある生活をしていたそうです。
「叔父さんが言っていた言葉が、忘れられないよ。『日本人はね、鉄道に敷く石ころ一つもきれいに洗ってから敷くんだよ。』ってね。だから経済大国になるんだよ。おじさんは、あのまま韓国は日本化された方が良かったんだって、言っていた。治安も良かったし、経済も安定していただろうに、ってね。自分もおじさんに砂糖をたくさんもらってね。親日野郎って言われちゃうから、こんなことは大きな声では言えないけどね。」


実はこの「日本になった方が良かった。」というのは、義理のお母さんからも直接聞いたことがあります。家族だからこういうのだろうと思いましたが、そうではなかったようです。こう思っている人も、韓国にはいるのだということを知りました。ただこういう話を、言うことができない社会風潮らしいということを、その時同時に知りました。


その後、近所にある壽城池の由来を知ったときも、大変驚かされました。この池は日本の統治時代、総督府に直談判し自分の私財を投げうった水崎林太郎さんが地元の農民とつくったもので、一緒につくられた方のご子息である徐彰教(ソ・チャンギョウ)さんが、林太郎さんのお墓を守っていることを知り、直接お会いしてお話を伺うこともできました。
「実は今でも、よく嫌がらせの電話がかかります。妻や子供たちは『お父さん、お墓を守ることはいい加減にしてほしい』と、呆れられていますよ。」と言いながら、林太郎さんのお墓を守ることに対する、強い意志を感じさせて下さいました。「私の兄は、独立運動家でした。父に反抗してね。私は父が『今この大邱の土地が豊かなのは、水崎林太郎さんのおかげだ。』という、その恩を忘れずに引き継いでいきたいだけです。今では兄とも、和解できていますよ。」と、徐さんは生前おっしゃってました。

https://note.mu/kando_nuriko/n/n176cffd28f51


そして、もう一つ。 家から車で少し行くと、鹿洞(ノクトン)書院があります。ここは豊臣秀吉の時代に文禄・慶長の役に加藤清正の部下として渡ってきた沙也加将軍が、「豊臣秀吉の出兵に大義なし」として3,000人の部下を率いて投降し、火縄銃の技術をこの地に伝え戦功をあげ、時の王から金海金氏の姓を賜った金忠善(キム・チュンソン)将軍を奉った場所です。ここの存在を知ったのは、私が担当した日本語クラスに、金忠善(キム・チュンソン)将軍の末裔の方の奥様が、学びに来られていたことがきっかけでした。
この将軍の存在を知ったときも、大変驚きました。いったいどんな思いでこの韓半島を愛し、帰化を選択し、率先して当時味方であった豊臣軍と戦ったというのでしょうか。

http://www.tabijin.com/nokdongsewon.html

とにかく私は、本当に恵まれた場所で生活しています。水崎林太郎さんや金忠善(キム・チュンソン)将軍のような、生き方のモデルである先人の方々が、以前この地域で、この風景を見て、この空気を吸って、この地を愛し生活されていたのですから。


そして、これらの出会いは、私を変えました。


写真:むくげの花(韓国の国花)  

                   (次回につづく・・・)

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全てが愛おしく感じる瞬間①母という存在

https://note.mu/kando_nuriko/n/n931946d33abf

拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡