川柳 「誹風柳多留」五篇② 着替えずに芝居帰りの夜を更かし
江戸時代には多くの寺子屋(手習場)ができ、庶民は読み書きを覚えた。世界には、文字の読めない人が多いのに、日本では昔から文字が読める人が多かった。
ただし、寺子屋で教えるのはひらがな。ひらがなも変体仮名なので、今の文字より多く覚えないといけない。「あ」は、「安」をくずした文字だけでなく、「愛」「阿」「悪」からできた文字もある。これを変体仮名という。
文字が読めるから本屋が出来る。本も、昔は1冊1冊書き写していたが、読む人が増えれば大量に印刷する。印刷物が売れれば印刷技術も向上する。そして浮世絵の、髪の毛1本1本までも彫っていく技術が完成した。本も、まだ高いので、安く読むために貸本屋が出来た。貸本屋の本は寺子屋で学んだ庶民向けだから、漢字にはひらがなのルビがふってある。それが江戸の本だ。
当時の人々の楽しみは、芝居や相撲があった。浮世絵にも芝居の役者、有名な相撲取りが題材にされた。今のアイドルを見るような思いで歌舞伎役者や相撲取を見ていた。
229 着かへずに 芝居帰りの夜をふかし だてなことかなだてなことかな
当時の娯楽、芝居を見に行った夜は、帰って着替えもせずにずっと話し込んでいる。という句。
43 高砂は今もついでに行くところ さいわゐな事さいわゐな事
高砂は、加古川と姫路の間にある。「♪高砂や、この浦舟に帆を上げて」と結婚式でおじいちゃんが歌う海岸がある。高砂は上方見物に来たついでに出かける所だ。というのも、能の「高砂」では、京都見物に来た九州の人が「ついでに」播州高砂の浦も見物しようと言う。それをふまえている。結婚式の「♪高砂や」も能の「高砂」からきている。
それだけ江戸の人は「高砂」を知っていた。能を見ているというより、そこから派生した歌や物語を知っていた。その知識の一つが、「ついでに行くところ」としての「高砂」だ。
江戸時代の結婚は、大きな結婚式などせずに、家庭内で式を済ませる。式は式なので、仲人も必要だし、三三九度もする。「高砂」も歌わなければはじまらなかったのだろう。
49 ぞう兵は又来ましたと後三年 たくさんなことたくさんなこと
前九年の役(1054年)、後三年の役(1087年)と、大将は変わっても下っ端の雑兵は同じなので、また来たという句。前九年の役は源頼義、後三年の役は源義家がそれぞれの大将で、乱を起こした東北地方を平定した。武士が力をつけるようになったきっかけの戦でもある。それぞれの戦も、歴史というよりも、物語として当時の人々は「歴史」をよく知っていた。物語の「歴史」は、本で読み、芝居で見ていた。
62 信長へ お国ものだと申上げ さいわゐな事さいわゐな事
豊臣秀吉の若かりし頃、木下藤吉郎時代に、初めて織田信長に仕えた時の口上。「同じ地域の出身です」と言った。織田信長も豊臣秀吉も、徳川家康までもが尾張・三河(愛知県)の出身。信長・秀吉・家康のこういう話は、まず物語として本になり、人気が出ると人形浄瑠璃や歌舞伎に脚色される。今でいうテレビ化、映画化されて人々に知られるようになる。秀吉と信長の出会いの話も、人々のよく知っているエピソードだ。
信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
という句も、原本の「甲子夜話」が読まれたというより、そこから派生した話が知られていったのだろう。そこから信長・秀吉・家康の性格はこうだったのかと、人々はますます思ったのだろう。性格を句にしたはずが、句から逆に性格を作られていった。
137 雨舎り煙管を出して叱られる よくばりにけりよくばりにけり
家の軒下に雨宿りした。それはいいのだけど、そこで煙草を吸おうとキセルを出した。すると叱られた。別に喫煙ハラスメントではなく、密集した江戸の町では、火事が発生すると大火災になってしまう。だから町中での喫煙は禁止されていた。
池波正太郎の作品を原作とするテレビドラマ「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵の肩書きは「火付盗賊改方長官」だ。「火付」つまり「放火」は重罪だった。密集した江戸の町が大火になるだけでなく、火事というのは人が死ぬ。放火は殺人にもなる。だから軒下の喫煙が叱られるのだ。
川柳は、そんな江戸の庶民の日常生活を描いている。
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