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身近な自然、道端の花を観察してみた

 コロナ禍で遠出ができなくなって、身近な自然を見る機会が増えた。自然といっても、野山の花を見るだけだ。お金もかからない、たったそれだけで心が癒される。私が、やってみたと言えるのは花の観察だ。

国破れて山河さんがありじょう春にして草木そうもく深し   杜甫とほ春望しゅんぼう

 国の組織は破壊されたが山河は残っている。町は春になると草木が茂る。
 昔から日本人は、中国の詩人のこの詩を覚え、口ずさんできた。
 人間の作った町は破壊されても、自然は残る。一時は消えても、季節がめぐるとまた復活するのが自然。ちっぽけな人間の思いなんかを越えて、自然は雄大な姿を見せてくれる。そんな自然を見ることによって心が癒される。理屈ではなくて、自然を見ると心が落ち着いてくる。町に住み、仕事に追われると、自然を見ることがなくなり、心も疲れてくる。


 春にはスミレ。

すみれほどな小さき人に生まれたし   夏目漱石

 スミレほどの小さな人に生まれたい。
 道端に咲くスミレ。道路脇の、ちょっとしたところに咲いていたりする。わあ、スミレだ。と見つけても、それぞれ色が違っていたり、形もちがったりする。それもそのはず、スミレにはいろんな種類がある。普段は見過ごしている道端に、多様な自然があふれている。神戸の六甲山のふもとだけでも、何十種類もあるそうだ。「スミレ」と一言では表現できない自然がそこにある。多様性にあふれ、生きている。
 漱石は、そんな小さな自然にあこがれた。
 自然のスミレだけではなく、よその家の庭を見ると、いろんな花が植えてある。普段は空き巣やストーカーだと思われないように、よその家の中までは見ないようにしている。でも、庭の花に興味を持つと、よその家の庭のいろんな花が目につく。三色スミレのパンジーやビオラにしても、意外と見たことがないような色や模様の花が植えてあることもある。


 図鑑の写真を見たり、ネットの写真を見るのではなく、自分の目で見たい。遠くの世界の花ではなく、私が見たものを見てほしい。私が美しいと感じたものを、あなたにも見てほしい。noteにはそんな身近な自然を表現することができる。身近な人が載せた自然を見ることもできる。その場所が近ければ、自分も見に行くことができる。


卯の花に兼房見ゆる白毛しらがかな   河合曾良かわいそら

 白いウノハナを見ていると、白髪頭をふりみだし源義経のために戦った増尾兼房の姿がしのばれる。
 ウノハナが咲き、スイカズラが甘い香りを漂わせ、ホトトギスの声も聞こえる。
 夏が来た。

の花のにお垣根かきね時鳥ほととぎすはや鳴きて 忍音しのびねもらす夏は   佐佐木信綱作詞「夏は来ぬ」


 春が過ぎ、花があふれる夏になり、秋になる。遠くへ出かけられないコロナ禍でも、春夏秋と季節はめぐる。

 秋も深まると、さすがに花の種類が減ってくる。職員がよく植え替えをしている市民花壇も、同じ花が続くようになる。新しい花の写真が撮れなくなってくる。毎日写していた新しい花がなくなってきた。
 自分が自然を見たいだけではなく、実は一緒に見ることができない、あなたに見てほしくて始めた花の観察だった。続けてやってみたことが、花が少なくなることによって続かなくなる。


 人間の思いなんて、自然に比べればちっぽけなこと。
 人間のやっていることを、自然は笑って見ているだけ。
 私は、いいカメラを持っているわけでもなく、ケータイで撮ったピンボケ写真だから、noteに載せるものは少ない。それでも続けていた。みんなに見てもらえなくてもいい。あなたにだけ見てほしかった。

 自然の観察をやってみた。
 花の写真を写すことを毎日やってみた。
 義務感のような思いで花を探し、自分の見た物を写真に写していた。
 それでも自分で写して自分で見て、
 自分自身心安らぐ時もある。


 冬になり、真っ白な雪が花を埋め、人間の思いも埋めていく。何もない世界が広がる。

 そしてまた春になり、何もなかった世界に花が咲く。



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