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コロナと日本の寺子屋教育について考える

 新型コロナに対して緊急事態宣言が発令された。
 コロナ禍で、ソーシャルディスタンスを保つ、マスクをする、手洗いをする、それが守れない人が一定数いる。いくら宣言をしても、法的拘束力がないので、何も変わらない人が多くいる。

 例年の成人式の映像では、必ず無茶苦茶をしている新成人の姿を流す。わかってない人間が必ずいる。その割合が2割程度なら社会はうまく回る。8割の人は、きちんとルールを守っているからだ。悪い部分だけ見ると、全てが悪く見えるが、きちんとしている人の方が多いのが現実の社会だ。
 ところが、きまりを守らない人の割合が増えると、どうしようもなくなる。ルールが徹底できなくなる。100匹目のサルと同じだ。いいかげんな人が増えると、ルールを守らない人も増える。割れ窓理論でもある。
 どんどんダメな人が増えていく。いいかげんな人間が増え、そんな人間が大きな顔をしているのを見るのはくやしいが、我々は、マスク、手洗い、ソーシャルディスタンス、を守ろう。守る人をもう一度増やそう。

 割れ窓理論は、窓が割れているのを放置すると、他の窓も全て壊される。犯罪を抑止するためには、ポイ捨てなどの軽い犯罪も徹底的に取り締まるという、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した考え。
 百匹目の猿現象は、生物学者のライアル・ワトソンが提唱したもの。ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、他の仲間にも他の集団にも伝播する。その例として、宮崎県の幸島のニホンザル、イモが、イモを洗って食べる事を覚え、それをまねたサルが100匹を超えると、その行動が群れ全体に広がったという。
 この話を経営コンサルタント、船井幸雄が「百匹目の猿―『思い』が世界を変える」という本にし、日本中に広がった。けれど、幸島でサルを研究している人は、そんなことはあり得ないという。イモと名づけられたサルが、イモを洗うことを覚え、それが仲間に広がったのは事実だが、100匹目で激変するような光景はなかった。一つの物語としてはおもしろいが、それを事実と思う人がいることも事実だ。空想が事実として語られる。

 今回の新型コロナに関しては、どれが本当なのかわからないことも多い。こんなことがあります、と言っていたのは医者なのか。専門の医者なのか、現場の医者なのか、研究だけしている医者なのか。もっといえば、医者の言葉かタレントのコメンテーターの言葉なのか、わからないことが多い。正しいことと、間違った情報が、一緒になって広がっていく。

 間違った考えは、正しいことを教えなければならない。流れてくるたくさんの情報の中から、正しいものを見つける訓練をしなければならない。
 そういう社会常識ともいえることを教えるのが「教育」だ。「きまりを守りましょう」という道徳を教えるのではない。
 コロナに関しては、感染症のリスクと防ぎ方を教える。正しい知識を教え、批判することを教え、これから自分で新しいことを学んでいこうという意欲を育てる。それが教育だ。
 マスク、手洗い、ソーシャルディスタンス。これを教える。

 西洋では、古代ギリシャの学校、アカデメイアなどが有名だが、日本では寺子屋というものがあった。
 教育をする場が、寺子屋から始まった。まさに寺の中で学んだのが始まりだろう。寺子屋では、読み書きそろばんを習う。
 往来物で、手紙の書き方も学ぶ。
 論語や四書五経の儒学についても学ぶ。ちょうど今の道徳にあたるだろう。
 百人一首や徒然草の古典も学ぶ。知識だけでなく、道徳や教養も学ぶ。

 寺子屋という名称は、関西のものらしいが、日本では、学習と寺が関わっている。
 昔の、遣隋使や遣唐使にも留学僧がいる。僧侶は学ぶものだった。葬式をするのが仕事ではなく、学ぶことが仕事だった。その伝統が残っているのが寺子屋だ。
 日本の現在の教育は、寺子屋の流れをくんでいる。寺子屋で論語の教えを覚えたように、教科だけでなく道徳も学ぶ。人にされて嫌なことは人にするな。道徳の時間がなくとも、教師は道徳を教える。

己の欲せざる所、人に施すことなかれ。  (論語)

 人にコロナをうつされたくないから、自分も人にうつさないようにする。
手洗い、マスク、ソーシャルディスタンスを守る。
 教育とは、AIのように知識を教えるだけではない。学校では、相手のことを思う心を学びたい。



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