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江戸の古川柳、 柄井川柳の「誹風柳多留」①

 毎年、サラリーマン川柳がでる。第34回の句を少し。


テレワークいつもと違う父を知る 

密ですと ますます部下は近よらぬ 

社会人 出社したのは まだ5回 

耳痛い常時マスクと妻の愚痴 

マスクして上司の顔色 読み取れず 

孫の顔 初めて見るのはスマホ越し 


 作者はいるが、名もなき一般人、庶民の作品だ。


 江戸時代からたくさんの川柳が作られたが、作者は一般庶民がほとんど。作者がはっきりする俳句、短歌(和歌)、狂歌とは違う。



 江戸時代の川柳は、五七五七七の七七で「切りたくもあり切りたくもなし」のような問題を出し(切りたくて切りたくないもの、な~に?)、前の五七五で「盗人を捕へて見ればわが子なり」(切り捨てたい盗人は切りたくない息子だった)のように答えを考える遊びで、前句付(まえくづけ)といった。

 人々は七七の問題に対して五七五の作品ができれば、参加料とともに応募する。よい作品には賞品が出る。お金を出して券を買い、そのお金を賞金にする宝くじみたいなものだ。そういう遊びだった。
 作品を選ぶ選者(点者)に柄井川柳(からいせんりゅう 1718~1790)がいて、彼の選ぶものが人気となり、それから「川柳」というようになった。柄井川柳の選んだ一年間の作品を冊子にしたものが「誹風柳多留(はいふうやなぎたる)」で、川柳生存中に24冊出ている。

 どんな作品があるか、実際に見てみよう。句の下の七七が問題となる。


かみなりをまねて腹がけやつとさせ  こはいことかな こはいことかな

47 子が出来て川の字なりに寝る夫婦  はなれこそすれ はなれこそすれ

78 役人の子は にぎにぎをよく覚え  うんのよいこと うんのよいこと

165 これ小判たつた一晩居てくれろ  あかぬことかな あかぬことかな

67 武蔵坊とかく支度に手間がとれ  かざりこそすれ かざりこそすれ
 武蔵坊弁慶は七つ道具を持っていた。だから支度に手間がかかっただろうというように、共通の知識を持っていないとわからないものもある。現代人が「鬼滅の刃」を知っているように、江戸の人々には、弁慶と七つ道具は結びついていた。

269 清盛の医者ははだかで脈をとり  はつめいなこと はつめいなこと
 平清盛は非常に高熱を出して亡くなった。源氏の恨みともいわれている。だから診察する医者も服を脱いで診察しただろう。そういう清盛に対する共通認識があった。
 「はつめい」は、賢い、利口だ、の意。

287 病みぬいたやうにように覚える四十三  おごりこそすれ おごりこそすれ
 病気の後のように見える43歳。42歳は男の厄年なので、病気にならないか、事故にあわないかと一年間びくびくして過ごしていた。だからその翌年は病み上がりのように見える。
 男の厄は25と42、女は19と33で(数え年)、昔の人は厄年を非常に恐れていた。

289 問へとえば一度にうごく田植笠たうえがさ  ていねいなこと ていねいなこと
 田植えは共同作業だ。大きな田んぼでは一人では作業ができない。若い早乙女(さおとめ)たちが並んで田植えをしている。いっせいに声のする方へ顔を向けたという風景。
 共同作業をするから皆のつながりができた。身分社会の底辺にいた農民も、人と人とのつながりの中で、それぞれの楽しみはあった。


 川柳も狂歌も、一人で作品を作って一人楽しむのではなく、皆で作品を共有する。仲間と楽しむ文芸だ。共同は共働となり、人々は一緒に活動をする。隣近所との人間関係も濃密だっただろう。弁慶や平清盛についても、こんな人物だという共通認識が人々の間にあった。

 生活様式は今とは違う部分も多くあるが、今と変わらない生活もあった。


古川柳作品は、「誹風柳多留初篇」より。その通し番号を記載。
見出し画像は、葛飾北斎「北斎漫画」の模写。


 古川柳のまとめは、


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