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「藤の花は山の悲鳴」って本当ですか

 山を覆う紫の花。
 藤の花が咲いている。
 公園の藤棚の大ぶりな花とは違う自然の花が咲いている。
 自然の美しさを見せてくれる。

 ところがこんな記事があった。
 「藤の花は山の悲鳴」という驚愕的な言葉とともに「美しさの裏にも目を向けて 京都・南丹の山林から」の見出しの京都新聞の記事だ。

 山の紫の藤の花は、林業関係者にとっては迷惑なのだ。「藤の花が目立つのは、山に手が入らなくなった結果。山の現状にも思いをはせてほしい」ということなのだそうな。
 藤のツルは木に食い込み、木材の価値を下げる。山林の手入れをしなくなったので藤の木が増えてきたという。
 そういう立場の人から見たら「藤の花は山の悲鳴」になるのだろう。

 とはいうものの、ヤフーニュースのコメント欄を見ると(コメント欄が好きでよく見るので、AIは私好みの意見を並べる)、それは人間の勝手だ藤が増えるのも自然な姿だ。「山の悲鳴」という言葉に対する否定的な意見が並ぶ。山の事実を知ったという意見もあるけど、京都新聞のタイトルに対する否定的な意見が並んでいる。

 日本にはもともと人里近くには里山さとやまがあった。
 里山の木や落ち葉を人々は利用して、山も本来の自然とは違う姿を見せる。大規模な林業とは違い、山菜を採ったり椎茸を栽培したりもする。燃料とする木や落ち葉の利用がなくなり、里山もすたれていった。
 大規模な林業も輸入木材におわれてすたれていった。

 戦後の消失した山に、木材として利用価値の高い杉をたくさん植林した。日本全国どこもかしこも杉林だらけになった。
 ところが杉材を使うことがなくなってきた。
 杉の木は生長するにしたがって間伐して大きく育てる。林業の衰退とともに間伐する人もいなくなる。間伐すれば十分根を伸ばせる場所に、根も伸ばせず密集して杉林が広がる。
 大量の杉が成長して、大量のスギ花粉を飛ばす。
 根が張れないので大雨が降れば土砂崩れで大量の杉がスポッと土から抜けて流される。
 間伐材で作っていた割り箸も、自然を大切にマイ箸を使おうという言葉で使われなくなる。使われなくなるから間伐材の割り箸は割高になり、輸入品の中国製の割り箸だらけになる。

 山に囲まれた日本列島では、山のことを考えなければならない。
 海の国であり山の国である日本に住んでいる我々は、海についても、山についても考えなければならない。
 藤が増えたから悲鳴をあげているのではなく、山の現状に悲鳴をあげている。

 山が杉林だらけになり、広葉樹がなくなれば、落ち葉の養分が川に流れ出すことも少なくなる。川に養分がなければ、川から流れて海に入る水にも養分がなくなる。養分がなくなればそれを食料とする海のプランクトンも増えず、プランクトンを食べる海の生物も増えない。そして漁獲高が減っていく。
 魚を増やすために、山にどんぐりを植える運動もある。海のために山を育てるのだ。

 自然は全てリンクしている。
 一面だけでなく、違う面も見なければならない。
 人々が集まる街は平地にあるので、ついつい平地が全てだと思ってしまう。
 平地のことだけでなく、山についても、海についても考えなければならない。
 


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