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自分から離れよう、ほんのひとときだけでも。

自分の体を離れてほかの人間に自分の意識を注入し、しばしの間、その人間として自分とは全く違う人生を経験して、また自分の体に帰ってくる。そんなことを最近はしている。

みんながよく知っている言葉で言えば「読書」という体験だ。何だ、ただの読書か、って思ったあなたは、もしかして、しばらくの間、小説というものを読んでないのではないだろうか。読んだときの身体感覚を忘れるくらい、ずっと読書から離れているのではないだろうか。なぜなら、わたしがそうだったから。

どうして小説を読むというのはこうもハードルが高いんだろう。連続してどんどん読んでいる時期はいいけれど、しばらく読まないでいると、読み始めるのが億劫になる。

小説を読むことは、映画を見たり演劇を見たり実用書を読んだりするのとは明らかに違いがある。映画や演劇や実用書は、カプセルに乗って世界を覗き見て「知る」のだけど、小説は自分の体から意識が抜け出して、他の人間の体の中に入り「経験する」。

自分の体から抜け出てほかの人物に入るなんて、大仕事だ。服脱いでお風呂に入るのが面倒くさいという人もいるだろうけど、それのもっと面倒バージョン。登場人物にインストールされたわたしは登場人物の五感も思考も引き受けなくてはいけない。体力もいる。集中力もいる。心底ぐったりする。それで忙しさに追われて、つい最近までほとんど小説を読めていなかった。小説家のはしくれなのに。

で、最近小説を読むという習慣を取り戻し、身体感覚を思い出し、これはいいぞ!と思ったので、ウイルスが世の中を変容させているこの時期こそ、小説を読んだほうがいい、なんておせっかいなことを言いたくて、このnoteを書いている。こんな先の見えないシリアスな時期こそ、自分の体を離れ、いま目の前の現実を忘れ、ひととき、他の人生を生きる必要があると思う。

単純に逃避という意味でも役に立つ。精神を換気して、外の空気を入れる必要があるから。でも、それだけじゃなくて、自分から離れることで、渦中にいると見えないことが見えてくる。問題に対する構え方のようなものが見えてくる。

小説を読むことが何の役に立つのか、それよりも目の前の現実問題に取り組んだ方がいいのではないか、と思う人もいるだろう。そんな人のためにがんばって説明してみる。

たとえばあなたが小さな小さな、他と隔離された、よそと文化的交流のない村で生まれ育ったとしよう。そんなあなたが、村を留守にして、外の世界を見てくると決意する。外の世界に出て、あなたは、初めて本当の村の姿が見えてくる。村の人たちとは違う考え方に触れて、生きざまに触れて、社会の在り方に触れる。旅の道中はうまくいかないこともあるし大変な目にもあうだろう。時間もかかるし、足も痛くなるだろう。でもそんな様々な経験をして村に帰ってきたあなたは、旅立つ前のあなたとは違うあなたになっている。きっと村に新しい知見をもたらし、村の人たちの問題を解決し、幸せに導く助けができることだろう。

小説を読むというのは、そういうことだとわたしは思っている。小さくて偏狭で閉ざされた自分自身と目の前の現実から、ひととき離れること。他の人生を体験して戻ってきたわたしは、読む前のわたしとは違うわたしになっている。わたしの問題を解決し幸せにする方法を少しだけ身に着けている。

ここまで書いてもまだ小説を読む気にならない人に、ものすごくわかりやすくしつこく、小説の効能を説明してみる。

運動が体にいいってことはみんな認めている。走ったり筋トレしたり。そんな動作って、日々の生活を営むうえで必要のない行為だけども、日頃動かさない筋肉や体力を使うことで、健康になるしケガを防ぐ。

現実ではない小説を読んで何の役に立つのか、という人に、現実には使わない動きをすることが健康の役に立つのと同じだと説明したらどうだろうか。

小説を読むことは想像力のトレーニングになる。普段は使わない想像力をふんだんに使う。フルで使う。能動的に使う。想像力は何の役に立つか。人間として生きていく上でありとあらゆる場面で役に立つ。何ならビジネスにもすごく役に立つ。新しいものを生み出すには想像力が必要だからだ。

歩けなくなったら自分で好きな場所に移動できないのと同じように、想像力を失ってしまったら、わたしたちは自分の窮地を救うことも幸せを作り出すこともできなくなる。自分の頭で考えることもできない。人に言われたとおりに、誰かのいうことを妄信して、誰かの都合で作られたテンプレートどおりに生きることしかできない。

小説は何よりの脳トレだとわたしは思う。日ごろ読んでない人は、文字を追うのがつらいはず。それは、まったく運動していない人が走り始めて5分ももたない人と同じで、しょうがないことだ。だから最初は自分の興味のあるものから始めたらいいと思う。漫画やゲームのノベライズでもいいし(子どもさんにもおすすめ)、児童文学でもいいし、短いものでもいい。何ならわたしの小説でもいいし(「ちょうどよいふたり」1編が短くておすすめ)。

わたしが最近読んで面白かったのは『復活の日』(小松左京)です。人工的に作られた致死性ウイルスに人類が滅ぼされる話ですが、この世界を体験したあとは、現在のこの状況、まだ希望があるなあと冷静に見れるようになりました。いいのか悪いのか(ちなみに最近はSF小説を読みあさってます)。

ここまでの説得で少しでも小説を読んでみようかなと思って、実際に読んでくれる人がひとりでも現れたら書いたかいがあるというもの。

想像力は使わないと衰える。普段の生活で使う機会は、はっきりいってほとんどない。便利すぎる世の中だからだ。自分にとっての本当の幸せが何か、テンプレに流されず、教え込まれた偏見をはぎとって、自分だけの答えを見つけ出すのは、とっても至難の業なんだ。わたしもまだもがき中だけど、小説を読み続けてきたおかげで、少しずつ、生きやすくなってきていると信じている。

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