見出し画像

【文学エッセイ】古都の影 vol.2 盆栽の美しさ―「古都」川端康成

(このエッセイは2009年1月に書いたものです)

 川端康成の長編小説「古都」には、京都の美しい四季や祭りの様子、京都弁で話す人々の暮らしが、観光ガイドのように並べられ、描写されている。そして、そんな京都を舞台に、生き別れの双子の姉妹が偶然出会うというドラマティックなストーリーが繰り広げられる。だけど、わたしが、この小説を読んでいて特に魅力を感じたのは、京都の描写でも双子の運命でもなく、登場人物が漏らす京都や自然についての個人的な感想だった。

 たとえば、主人公の千重子と千重子の育ての父親は、二人で楠を見上げながら、こんな会話をする。

「なあ、千重子、楠て、お父さんも、よう知らんけど、暖かい土地、南国の木やないのやろか。熱海とか、九州とかでは、そら、さかんなもんや。ここのは老木やけど、大きい盆栽みたいな感じせえへんか。」
「それが、京都やおへんの? 山でも、川でも、人でも……。」と、千重子は言った。

 大きい盆栽……。なるほど、京都の美しさは、自然を人の手で丁寧に成型した美しさなのかもしれない。放っておくだけでは決して育たない努力の美。わたしが今まで京都に漠然と感じていた違和感を、川端に説明してもらった気がした。

 また、呉服屋の娘として育った千重子は、初めて間近で見る北山杉の美しさに感動するが、北山杉の村で育ち、林業を生業とする家で働いている苗子は、こんなことを言うのだった。

「人間のつくった杉どすもの。」と、苗子は言った。
「ええ?」
「(中略)うちは、原生林の方が好きどす。この村は、まあ、切り花をつくってるようなもんどっしゃろ……。」

 切り花、そして盆栽。物語を読んでいると、それらは川端の批判心から生まれたセリフじゃないことが分かる。植物を丹精こめて育てあげ、矯正し、演出によって作りだした不自然な自然。そこには、原生林にはない、人間の切実さと傲慢さが同時に宿っているような気がした。

 これらの表現がなかったら、わたしは、北山杉を見に行こうなんて物好きな気持を起こさなかったかもしれない。

 よく晴れた冬の日、わたしは京都駅まで出て行って、バスに乗った。金閣寺を越え、立命館大学を過ぎると、景色が一変する。バスは、山が迫っている曲がりくねった道を、ゆっくりと走っていく。窓からは源流に近い水が岩の間を流れているのが見える。山肌に整然と並んでる木々は、剣先のように尖って見えた。 窓の外には、千重子がバスに乗ってこの村を訪ねたときの文章と同じ景色が広がっていた。

 清滝川の岸に、急な山が迫って来る。やがて美しい杉林がながめられる。じつに真直ぐにそろって立った杉で、人の心こめた手入れが、一目でわかる。銘木の北山丸太は、この村でしか出来ない。

 今まで晴れていた空はどんよりと曇り始め、粉雪が舞っているなと思っていたら、いつのまにか大吹雪になってしまった。 

 北山グリーンガーデンという停留所でバスを降りた。全くひとけがなかった。雪と川と山しか見えなかった。

画像1

 間近に迫るたくさんの杉を目の前にして、わたしは、小説の一節を思い出す。

じつに真直ぐな幹の木末に、少し円く残した杉葉を、千重子は、「冬の花」と思うと、ほんとうに冬の花である。
(中略)
「冬の方が、きれいやないの。」と、千重子は言った。
「そうどすやろか。いつも見なれていて、わからしまへんけど、やっぱり冬は、杉の葉が、ちょっと、薄いすすき色になんのとちがいますか。」
「それが、花みたいや。」
「花。花どすか。」と、苗子は思いがけないように、杉山を見上げた。

 しかし、実際に見た冬の花は、圧倒されるほどに美しいけれど、同時に、何だか気持悪くもあった。「木」と呼ぶにはあまりにも不自然に真っ直ぐで細すぎる幹のせいかもしれなかった。この真っ直ぐさ、細さ、傷一つない美しさを成し遂げるのに、どれだけ人の手と苦労が費やされていることだろうか。そして、この木は、どれだけの不自然さを強いられてきたことだろうか。

 雪は、さらに強くなってくる。歩き回っているうちに靴に水がしみこみ、体も芯から冷えてしまった。一軒だけ目に付いた店が、かろうじて開いていたので中に入る。土産物屋兼、喫茶店兼、資料館受付の何でも屋。暖房の効いた店内で一息つくと、わたしはぜんざいを注文した。

 中にいたのは、店主の女性と地元の人らしき初老のおじさんだけだった。

 二人は退屈していたのか、気さくに話してくれる。父親が川端康成と懇意で、若い頃はよく鎌倉の家までものを届けに行っていたと、おじさんが何でもないように言うので、わたしは驚いた。
「本物の川端康成と話したことがあるんですか」
「そりゃ、あるさ」
 かかかと笑う彼は、豪快でさっぱりとしていて暖かい。

画像2

 わたしにとって、川端康成は、小説の登場人物と同じくらい、近くて遠い人だ。小説に書かれた景色が、そのまま実在していて、作者の生々しい面影に出会うなんて、不思議で奇妙な感じだった。

 街に降りるついでがあるから送ってあげるよ、と、おじさんに言われて、帰りは軽トラックの助手席に揺られ山を降りることになった。雪は相変わらず吹雪いていて、黒々とした山と道路を白く染めている。

 林業の後継者はいないし、若い人たちはみんな出て行ってしまうのだ、と、おじさんは、案外あっけらかんと喋ってくれる。食えないんだからしょうがないよ、もう家も暮らし方も違うしね、時代の流れだね、と言う。はやりにうまく乗れなかったんだからしょうがない、と。

 彼自身も、今は丸太を作っても儲からないから、庭に植える鑑賞用の台杉を作って売ったり、手入れをしに行ったりして生計をたてているのだそうだ。

 丸太の柱のある木の家。わたしにとって、そんな家は、入場料を払って鑑賞する時くらいしか縁がない。自分が住んでみたらどんな気持がするだろう。すべすべとした丸太の柱に触れて、庭を眺める暮らしはきっと素敵だろう。でも、そんなのは夢物語だ。それに、わたしには、丸太の柱よりも、便利で手軽な生活の方が重要だった。

「先生は、いつも突然来はるから」
 運転しているおじさんの顔を盗み見ると、本当に困ったんだと言うように、苦笑している。
「鎌倉の家からな、ぴゅーっと電車に乗って京都に来て、そこからはタクシーやな。で、この北山の村に来て、何するでもない、杉を眺めて、しばらく滞在して、そしたらまた帰っていくんや」

「古都」の取材に来ていたのかと思ったが、よく聞けば、それは執筆が終わったあとの話だった。
「丸太の買い付けのためじゃなくて?」
 と、わたしはさらに尋ねる。
「そうや。なんにもせんと、ぶらぶらして帰るだけや」

 杉山に背を向けて十五分も走ればもう町だった。吹雪の中にいたなんて言ったら笑われそうなくらいに、あたりはすっきりと晴れていた。金閣寺のところまで送ってもらって、おじさんと別れた。

画像3

 川端康成は、帰りのタクシーの中でどんなことを考えていただろうか。わたしの想像の中の川端は、なぜかとても厳しい顔をしていた。彼の心は、観光地に見物に行った帰りのように呑気に浮かれていたのではなく、しんと冷たく重いものに満たされていたんじゃないだろうか。あの小さな顔をきゅっと引き締めながら、鎌倉の住居に帰っていったのではないだろうか。小説家という自分の仕事に帰っていったのではないだろうか。

 目をつむれば、まっすぐな杉の姿が、まぶたの裏に焼きついていた。圧倒される美しさだった。グロテスクと言ってもいいかもしれない。そして、なぜか、その姿を思い出すと、心の奥底を揺さぶられて、ざわざわした。

 金閣寺の前は、観光客で賑わっていた。よーじやの紙袋を提げた制服の女子高生たちが、はしゃぎあいながらバスの時刻を確認している。カップルがガイド本の地図を広げて、顔をくっつけあうようにして一緒に覗き込んでいる。

 彼らに混じってバスを待ちながら、これからまた、わたしは、鉄骨に囲まれた小さな部屋に戻り、五本の指で電子機器で文字を打つ生活に戻るのだなあと、ぼんやりと考えていた。そして、気がつけば、わたしは、わたしの小さな生活を、精一杯手をかけて美しくしたい、と、強く願っていた。

画像4

「古都」川端康成
昭和37年刊行。京都を舞台に、双子の姉妹の運命を描いた小説。四季折々の植物の描写が美しい。会話は全て京都弁で編まれ、京都の地名や行事もふんだんに出てくる。

執筆日:2009年1月26日 初出「京の発言」第12号

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?