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嫌なものすら捨てられない自分に気づいて、なぜ捨てられないのかを考えたら、人生の大きな課題が解決しそう

大きく困難な課題に取り組むときは、自分が確実にできそうな一番ハードルの低い最初の一歩を考えるといいのではないか、という仮説を実証すべく、いろんなことにこれを当てはめている。

部屋を片付けたいと長年思い続けている。これも、最初の一歩をうまく思いつけば解決できるかもしれない。わたしでもできる最初の一歩は何だろう。ゴミを拾うくらいはできる。けれど、それでは目指すゴールには近づかない。もっと根本的に要らないものを捨てて、必要なものが気持ちよく取り出せる部屋にしたい。その目的のための最低限のステップは何か。わたしは何ならできるのか。

悩んで悩んで考えて出てきた結論が「見ると嫌な気持ちになるものは捨てる」だった。いつか使うかも…のいつかは来ないとか、1年着なかった服は捨てるとか、理屈ではわかるけどそれができない。未来の可能性に想いを馳せ始めると頭がパンクする。だけど「嫌な思いがするもの」なら、捨てるべきだ。嫌な思いがするかどうかは、その物を見れば、一瞬でわかる。片付けの教祖こんまりさんのときめくものを残すの逆バージョンだ。わたしの部屋にときめくものなど、ほとんどない(あっても埋もれていたり、ちゃんと手入れしてなかったりしてときめきを失っている)から全然実践できなかったけど、嫌なものならたくさんある。。

そう、たくさんあったのだ。

嫌だなと思うものを見つけては捨てていく。片付けがサクサク進んだ。すごい!これは画期的!わたし、これで、本とか書けちゃうんじゃない!? 寒竹メソッド!? と大興奮でこの発見を夫に話すと、「そもそもなんで、君は嫌な気持ちになるものを部屋に置いてるわけ?」と不思議な顔をされた。

確かに。何でだろう。

捨てたものを思い返して考えてみる。

見ると嫌なことを思い出すけどモノ自体には罪がないから捨てられないとか、義理で受け取ったけど負担になっているとか、いらないって言えなくて受け取ったとか、買い物の失敗を認めたくないとか、いろんな理由が出てきて自分にうんざりした。わたしが物を捨てようが部屋に置いておこうが、誰もそれを知ることもできないのに、わたしは自分の部屋でまで、誰かに気を使って、嫌な思いがするものに囲まれて我慢して生きているのか、と思った。

嫌な気持ちがすることを認めて、それを手放すことは、わたしにとって必要なトレーニングかもしれない。わたしの部屋はわたしの自由にしたいし、わたしの時間はわたしの自由にしたいし、わたしの心もわたしの自由にしたい。そんなふうに生きたいとずっと願っていた。なのに、断れないことをずっと悩んでいた。部屋の片づけは、断れないわたしから脱却するための、最初の小さな一歩になるかもしれない。

わたしを嫌な気持ちにするものとは、離れていい。そんなふうに言ってしまうと、嫌なことから逃げちゃだめだって言われるかもしれない。もう少し丁寧に考えてみよう。

「わたしを嫌な気持ちにするもので、それを我慢しても自分の幸せにつながらないのなら、離れていい」

というのはどうだろう。

そりゃそうだろう、当たり前だ、と言われそうな気がするけれど、これを自分に言い聞かせて意識しておかないと実行できない、わたしのような人もいるんじゃないかなと思う。

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