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これからの日本語教育

こんにちは。小さな商社で働いているかんじと申します。私は過去に日本語を勉強して様々なキャリアや趣味、教養に活かしていく人々の傍らに、またその人たちを取り巻く学習環境、社会環境など様々な側面を研究・実践する日本語教育という分野の業界の傍らに10年近くいました。「日本語教師」ではありませんが、業界を離れ2-3年経ち、個人としても英語、韓国語、タイ語等々細々と語学を続け、どんな言葉があるのか知りながら生きているので、言語教育への関心は今でもあります。

さて、タイトルにあるようにこれからの日本語教育について現在外野にいる僕が色々と派生しながら4つのテーマに沿って書いていきます。憶測といえば憶測。個人の思想と妄想だけど、1つの読み物として読んでいただけると嬉しいです。


1章.AIの進化と日本語を話す必要性は?

今日現在、ChatGPTをはじめ生成系AIが世界を席巻していますが、AIの進化に伴い自動翻訳技術の向上もまたすさまじい勢いです。同時自動翻訳機能を個人がスマホを使って、いやマイク付きイヤホンのような超小型の自動翻訳機を使う日も近いでしょう。ましてや日本語のような難しいと思われている言語においては外国人が日本語を話す必要性があるのでしょうか。

1節.結論:外国人が日本語を学び日本語を話す必要性はある。

どのような場面で必要になるかを考えてきたのですが、たまに出会うこの主張が最適だと思っています。「人を巻き込んでやっていく業務など他人に影響を及ぼすような立場にいる人にとっては必要」という主張です。そもそも言葉は意思疎通の道具でもあるため、相手がいて初めて使える道具です。外国語が話せない日本人と共にするのであればそれは自動翻訳機よりも必要性が高いかもしれません。どんなに瞬時に同時翻訳ができても、映画の吹き替え状態と共通言語で話す状態の間にある1枚の壁は分厚く、破壊しきれないと思っています。

特に日本人は日本語が話せる外国人を受け入れやすいという点で、日本語を話す必要性は高まると思います。多くの日本人の頭の中で外見の違いから日本語が通じないのではないかという心理的距離感を生み出されます(東アジア系は外見では判断されにくいです)が、日本語が話せると急に距離感が縮まる現象が起きます。

そのため、時には自分の声で助けを求めたり、時には自分の声で談笑したりと自動翻訳技術ではまだ追いつけない体験ができます。相対的に見たら日本で働きたい人、暮らしたい人は旅行者よりも少ないかもしれませんが、日本語を話す必要性はAI、自動翻訳技術によって消えることはないでしょう。

〈余談〉
過去に私が日本語教育機関で出会ったメキシコ人は社内で英語の活用が推奨されていた日本のIT企業でチームリーダーをやっていました。その方は日本人の配偶者がいて、プライベートな時間は日本語でも生活できるくらいのレベルでしたが、仕事の日本語は難しく、しばらくは英語9割、日本語1割で仕事をしていたそうです。ところが共通言語であるはずだった英語を使った仕事ではどうも回らず、同僚や部下との距離感もあったようで、本人の希望もあり当時僕が勤めていた日本語教育機関で日本語を勉強していました。その結果、まだぎこちないところはあるけれど社内の雰囲気も少しずつ変わっていったそうです。元々の性格の明るさもあると思いますが、このあたりからも学ぶ必要性はあると実感しています。ある種の同化のようにも聞こえますが良くも悪くも距離が縮まるということです。

2節.エキゾチックな国でエンジョイするツールとしても

現在の日本は円安、他国のインフレの影響もあり物価が安い国へと移りつつあります。そんな日本は千年以上の歴史を持ち、そして文化遺産、芸能、工芸、建築など様々な文化財が色濃く残っている国でもあります。加えて食文化も多様で、日本は観光大国としてのポテンシャルがまだまだあります。最近では東京、京都などメジャーな観光地からニッチな地方への観光、アニメ/ドラマの聖地巡礼などで様々な場所を訪れる外国人も増えてきました。

そこでAI翻訳があれば問題なく観光はできますが、人と関わりたい、直接気持ちを伝えたいといった気持ちから感謝、質問、挨拶を日本語で言いたい外国人観光客も少なからずいるのではないでしょうか。

輸送技術が凄まじく向上していく現代、ある程度のクオリティなら寿司、ラーメンなど日本食を食べられる国も増えてきたでしょう。そして情報に溢れ、知らない土地でもGoogle Mapが案内してくれる。異国の線引きはどんどん薄まっています。その中で異国たらしめるものといえば、やっぱり生の言葉ですよね。理解できない言葉を見聞きしているその瞬間こそが異国との出会いであり、その言葉を楽しめるものなのではないでしょうか。こういった日本語を話す必要性もまた一定程度あると思っています。

つまり、人とともに生きるにしても、一人で過ごすにしてもなんらか必要性は残っていくという考えを僕は持っています。自動翻訳機にはない不自由さが人を動かすのかもしれません。

2章.ネイティブ並みに話せないといけないのか?

必要性はあってもネイティブ並みに話せないといけないのでしょうか。これは日本語教育に限らず言えることだと思いますが、ネイティブ並みに話せることは素晴らしいことです。よく語学の資格試験で耳にするような「どんな場面でも大抵のことは対応できる」といった類のことでしょう。

ただ、普段から母語でも自分が話したことのない話題なども話せないといけないのでしょうか。ネイティブでも政治経済の話はおろか、何か質問があるかと聞いても誰も発言しないことが多いのに学習者はネイティブ並みに話せないのいけないのでしょうか。

1節.結論:必要以上のことはいらない。

語学学習においてすごく曖昧な「どこまで勉強したらいいのか」という問題の答えにもなりますが、自分が納得できるところまでで、必要以上のことはいらないというのが今のところの正解になると思っています。

受験英語を経験してきた身としては何でもかんでも読んで、嫌でも点数がついてしまったあの頃。ある意味、当時の自分や学習環境を反面教師として見ることで、日本語学習者と接した時に必要なものだけ覚えておいてと言える気がします。仮に人と話す時に分からないこと、今まで必要と思っていなかったことに遭遇した時には、ここぞとばかりにAI、自動翻訳機の力を借りればその場は乗り切れると思うし、今後も必要な表現や言葉だと感じるなら覚えていけばいいんだと思います。

つまり自分が「納得できるところまで」の最終的なゴールは母語と同じ程度に話せるようになるという考えだと思います。スポーツの話は母語でも分からないし、車も興味がないからそういうことは話せなくてもいいかなといった具合です。人によってはレストランで注文が出来ればいいという納得できるラインも1つのゴールですので、学習者はこういう「納得できるところまで」という態度で勉強に臨めばいいと思います。

一方で日本語教師が受験英語の経験をいつの間にか常識にしてしまって、とにかく覚えろという態度を日本語学習者に見せていないか心配です。これは知っておいてほしい、あれは覚えて損はないよという思いがあった場合、それはそれで大事なことではあるんですが、学習者への詰め込み教育にもなりかねません。

学習者が興味のないことで努力をしたとしても、最後にはきれいさっぱり忘れているかもしれないので、学習者はネイティブ並みに話す必要もなければ、学習者をネイティブ並みにする必要もないのです。ネイティブ並みというのは極端な言い方をすれば同化として捉えられかねません。学習者本人が望む方向に導けば日本語教師としての役割は果たせると思っています。それがオーディオリンガルメソッド的な教育であれば詰め込むしかないので、日本語教育機関によっては頭を悩ませる話かもしれませんが、それでもやはり必要以上のことはいらないのでしょう。。

本来であれば学習者も教師も義務感に駆られずに自分の納得できるラインまでやればいいんだと思います。それが勉強できる場所として日本語教育機関が存在していると思いますが、評価する/進級する/テストするなんてことをしようと思うと個人個人の納得できるところまでとどう向き合うかが大きなポイントになりそうです。

3章.どうしたら話せるようになるのか?

必要以上のことはいらないと言われてもどうやって話せるようになるのかと思ってる人もいると思います。例えば日本人の英語は圧倒的に練習量が足りていないと言われることが多いようですが、どうしたらいいのでしょうか。僕なりの見解を述べます。

1節.ヒントはエクセルに。

急にぶっ飛びましたが、最近では小中学生でも授業なとで触るであろうMicrosoft社のエクセル。これで思い浮かべることと言えば関数ですよね。最近は特にエクセルの参考書が山のように書店に並べられています。

この関数ではこういうことができます。
この関数はこういう仕組みです。
練習中してみましょう。

ほとんどが上に書いたような教え方です。まるで受験英語の文法書ですね。実際に参考書を購入してやってみると、エクセル参考書の問題はできるけど、いざ会社で生データを使って関数でまとめようと思ってできないなんて事態になることもあります。僕はそのうちの1人ですが、ここも6年も勉強したのに全然できないで有名な日本の英語教育問題なんかと似ていて、受験英語とエクセルの現状って重なる部分があるんですよね。

参考書があっても実際には上手く使えないという受験英語とエクセルの課題に対して、異なる部分が1つあります。エクセルに不慣れだった頃、習得するまで「こうしたい」という気持ちを持ち、その後に「どの関数を使えばいいか」と思いながら検索・勉強して、「ああこう言えばいいのか!早速使ってみよう」という流れで少しずつ実践していました。忘れたらまた調べて、思い出して実践。その繰り返しで覚えていきました。この覚え方は自分が経験した受験英語と大きく違いました。

この違いこそが話せるに繋がります。

受験英語では、「こうしたい」に関わらず初級レベルから1段ずつ勉強し、勝手に出てきた文章や音声がやってきて分析、解読していきましたよね。「火星についての話なんか知らねぇよ」と思いながら。
一方でエクセルはある程度基本的な動きざっとを覚えたあとは、基本的な動きを振り返りつつ、「こうしたい」という結果にするにはどういう関数を使い、組み合わせたらいいのかを調べて使ってみるんです。これが大きな言語習得のヒントでした。

「こうしたい」という目的が意識的にも、無意識的にもなければ使えるようになりません。というか、使う必要性はないはずです。だから受験英語では話せないという結論になるんですね。間接的な受験という目的はあっても、直接的に目的がなければ使えなくても仕方ないです、というかそれで当たり前なんです。落ち込まないでください。

2節.「こうしたいに」応える語彙、文法。

では、エクセルにヒントがあるとして、そこからどうしたら話せるようになるのか。次に必要になるものは文法、文型、語彙など話すためのアイテムです。

ただ、1つの目的を達成するために「これだ!」というアイテムがあるわけではありません。エクセルで求めている結果に対して使う関数が作業者によって違うように、言語においても複雑になればなるほど決まりきったアイテムはないと思ってください。日本語でも依頼、謝罪、提案などが三者三様であるように、語学学習においても今知りうる限りの文法を駆使し、知っている語彙を使いながら話すことになります。

エクセルをイメージすることで話せるようになりそうですか?エクセルをヒントにアイテムを持てば何とかなりそうですよね。エクセルと唯一違うのは100%正しくなくても相手に伝わるということ。これだけでもますます話せるようになった気がしてきませんか。

ただ問題点があるとすれば日本語教育も英語教育も全体像を見ずに1ページずつ勉強する習慣があることです。少なくとも日本語教育は母国の進学試験のために日本語を学ぶ学習者の方が少なく、多くの学習者が何らかの「こうしたい」という気持ちを持って勉強しているはずです。なのにいざ教室で勉強したら1ページずつでは気持ちも続かず疲れてしまいます。

前節でエクセルを勉強する時「ある程度基本的な動きざっとを覚えた」と書きましたが、この基本的な動きを日本語教育に置き換えると文法、文型などの骨組みのことを指します。さっきも触れましたが一般的に語学学習においては初級からじっくりと行います。せっかくエクセルの話をしたのに時間がかかる一方です。僕自身のエクセルの経験と同じように初級レベルの文法、文型はざっと目を通しておいた方がいいと思っています。

文法、文型は全部まるまる覚える必要はありません。ただこういうのがあるんだという感覚が大切です。語彙は後から付いてきますし、何度だって復習していいんです。個人的な学習経験でもありますが最初に初級レベルでどんなことが言えるのかを知ることで一週間もあれば旅行の時にも助けになったり、現地の人と軽く話せたり、SNSで投稿できたりしてしまいます。そしてそれを繰り返すことでもっと使えるようになっていきます。

手元にあるアイテム、これから使う予定のアイテムがどんなものか先に知っておけば自分ができることに幅ができそうだなとイメージできますよね。

語彙や文法などのアイテムはとても大切です。なのでどうしても覚えるという過程は不可欠です。そういう意味だと受験英語の経験はどの分野の興味にも対応できるアイテムの宝庫と言える…かもしれません。文法の予習をしたり、英語訳の宿題で単語を調べたり、アイテム解析をよくやりました。現在の英語教育をきちんと勉強していないので今は変わっているかもしれませんが、僕の時代では解析ばかりでしたが一概に悪いとは言い切れませんね。

3節.本当に日本語が話せるの?

結論からいうと語彙の発音も覚えてたら話せます。

英語教育、日本語教育問わずですが、語彙の発音まで勉強している人は「こうしたい」という場面に遭遇すれば話せます。流暢なレベルに行くには場数と勉強で伸ばしていけると思います。程度はあれど「話せる」=「流暢である」ではないので、「こうしたい」という気持ちから生まれる目的が達成できればそれは話せるということになるんです。

一方で発音を覚えていなくて、文字として見た瞬間に意味を思い出せるところまでで勉強を終えた人は、極端に言うといざ「こうしたい」という場面に遭遇しても発音というアイテムの使い方を知らないので話せない可能性が高いです。アイテムの仕分けはできるので、文字として遭遇した時に記憶の棚から取り出して中身(意味/品詞)を確認することはできるのですが、実際の使い方(発音)までは分からないという状況。これって受験英語の経験をした人ならば共感できる人もいるのではないでしょうか。

You Tubeのショート動画で英語字幕があるとその時は英語が聞き取れているような気がするのも似た状況です。

発音まで覚えるのは辛いと思ったかもしれませんが、避けて通れない道です。目的があって勉強しているなら発音を覚えるのも早いはずです。

〈余談〉
偏見ではないですが、日本語教育の例としてテストはできないけどやたら話せるネパール人学習者と、N2まで合格してるのに初級レベルの語彙が使えず話せない中国人学習者をイメージすることはできますか。
これは実際に中国語母語話者にとっては日本語の漢字の意味は形を見て推測がしやすいらしく、JLPTでも特に読解はN5よりもN2の方が分かりやすいそうです。テスト、特に読解問題では発音は関係ないのでレベルの高い試験には合格するが話せない。
つまり発音が「話せる」に繫がるヒントになります。結果的に話せないという悪い方向になってしまった例ですが、進学にJLPTの条件があるため取り巻く環境がこのような状況を生んでいるとも言えますね。。。

4章.これからの日本語教育

日本語を話す必要性はそんな簡単には消えない。そして多文化共生の時代では語学教育、学習の最終ゴールはネイティブ並みになることではなく、それぞれが納得する範囲で、不足する部分はAIの活用で補っていく。さらにどうやって話せるようになるのかを問えば「こうしたい」という目的意識と語彙の発音まで覚える学習があればできる。そんな話をしました。

最後にタイトルの通りこれからの日本語教育について、これからも日本語を勉強したいと考えている学習者に対して日本語教育がどうしたらいいのか。あまり詳しくないけど、こうあったらいいなぁというのも含めいろんな観点で書いていきたいと思います。

1節.学習環境と日本語教育

日本語教育における学習環境は大きく分けてオフラインとオンラインの2つに分けられると思います。 学習者のことを考えると色んなことができるような気がしています。

教師の労働を減らして、教師も学習者もいかに授業に集中させるか

まずオフラインの学習環境について、留学生を対象とした日本語教育機関いわゆる日本語学校の学習環境を考えましょう。

日本語学校では出席率を報告しないといけないため出席を取っている学校がほとんどだと思います。授業開始直後に出席を取る学校があったとしたら、顔認証技術やIDカードの利用を採用することができないのかと考えています。そうすることで担当教員の業務量が減り、学習時間が増えます。

これらの技術を使えば授業時間外に教師の手間も取らず出席が取れますし、手入力での集計なんかも省けると思います。仮に従業内で出席を取るのに3分かかっているとしたら、3分✕年間授業数(仮) 200日=600分=6時間なので2日分の授業時間が生み出されます。授業中に出欠確認をしない場合でも教師の業務量は減ることになりますよね。

つまり、何を言いたいかというとオフラインにもっと技術的なことを加えて学習者の時間を増やしていけるのではないかと考えています。板書の時間が無駄だと気づく人は大勢いるのに、他にある無駄に気づける人はどれだけいるのでしょうか。

えっ。そんなことから?と思うかもしれませんがこれからはこういうことを考えて真剣に学習者と向き合い続ける学校が必要だと思っています。単にデジタル化して入力するだけでも駄目で教師の労働としての出欠確認を機械に任せ、本当に必要なサービスを提供できる環境が必要です。

単純な授業時間の確保だけでなく、無駄な時間を省いき日本語教師が余裕をもって授業をすることにも繋がります。次の展開に意識がいかず、学習者と向き合う時間が増えるかもしれません。

いつまでお金を出さない学習環境なのか

日本語学校に加えて、オフラインの学習環境で考えたいのは地域の日本語教室といういわゆるボランディア教室(児童生徒対象も含む)です。地域のご老人や国際交流に興味のある方がヘルプしているのですが、専門知識が不足している問題も一方で抱えています。

アフターコロナと言われいている今、web会議システムを使って日本語教師がボランティア教室、いや市町村の無料日本語レッスンをしてもいいのではないかと思っています。すでに実践しているところもあるかもしれませんが、モニターとPCとカメラがあれば日本語を必要としている方々に十分にサービスを提供できる世の中になったはずです。

ボランティアの方々にはじゃあ来ないでくださいっていうわけではなくて、ボランティアの方々には練習相手や補助、実際に街に出て学んだことをアウトプットする機会に寄り添う存在でいてくれたら最高です。ある程度経験のある日本語教師が主導して地域の日本語教室をデザインしていけばクオリティの高い地域の日本語教室になるはずです。市町村が負担をしたとしても、学習者が仕事を始めて稼ぐようになったら数年で初期費用は税金として回収できると思いますし、どんどんやってほしいなと思います。

もちろん色んな考えが地域ごとにあるので納得のいくやり方で試行錯誤すればいいんですけど、もう少しお金かけてやるところからスタートしようよというという話です。で、そのお金って無駄にできないじゃないですか。だからこそ街も人も参加してくれるようになるのではないかと思うんですよね。

いつまで借金させて日本で学ばせるのか

続いてはオンラインの学習環境について改善というか、提案に近いかもしれませんが、現在オンライン授業を提供しているプラットフォームや日本語学校などがコロナ禍の影響もあり、かなり増えた印象があります。ただ個人的にはオフラインの代替授業みたいな感じがしていて、コロナ禍で教師と学習者双方のオンライン授業に対する抵抗感を脱した今、オンラインの学習環境を本格的に応用し、日本語学校の構造をも変えた方がいいと思っています。

そう思わされた課題が相変わらず多額の借金を抱えてまで留学する方がいること。挙句の果てには深夜バイトで授業中寝るとか、生活リズムが崩れるとか問題が出ているのに、この構造は長らく変わりません。問題や不安要素を2つ以上抱えて外国で生活するのは相当な負担だと思います。お金がなく、日本語も出来ないのに、安い給料で働いて、日本語の授業を受けられないという負のスパイラルもあると思っています。これは留学生に限らず日本語学校も負担です。

今はインターネットの力でどこでも学習できます。それなのにわざわざ日本に来て挨拶から勉強しているって正直効率悪いし、日本での生活もある程度話せてから来た方が充実するはずじゃないですか。ということで日本語学校の構造を変える1つが留学目的の来日に関しては初級クラスは開講しないことです。

日本語学校の収益が減少するような提案で申し訳ないんですが、その代わりに日本語学校がオンラインで初級クラスを海外の日本語教育機関やエージェントを囲い込みながら展開して、自分たちのお客様を確保していけばいいと思っています。学習者の金銭的な負担は少し減り、来日してまで続けたいのかモチベーションの維持も確認できます。現地に任せているから実態と合わない状況が生まれるわけですから、日本語学校での初級クラスなくし、オンラインで授業をやり、その後来日させることができればレベルもはっきりとわかっているので双方に齟齬なく進められる上、エージェントの収入も減り、悪徳業者も減らせるのでは?とも思っています。
こういった借金を抱える問題については留学生の責任だから知らない、かわいそうで済ませてはいけないと思います。日本語学校の営業力、企画力的な勢いがないのも問題だと思っています。現地で確実に育ってからの方がお互いにwin-winなのにもったいないです。

これからの学習環境はオフライン、オンラインのどちらかという区切りは完全になくなりました。これまでも潜在的に上達が早い学習者のうちはオフラインで対面授業を受けながら、オンラインで動画や電話、チャットを通じて学習と実践をしていた人もいるはずです。そういった学習プロセスを日本語教育機関の学習環境や学習デザインにおいても織り交ぜていくのが今の、そして、これからの日本語教育かもしれません。

2節.待遇と日本語教育

そう。日本語教師の待遇の話は切っても切り離せません。一言で言えば“割に合わない”ということです。これからの日本語教育を考える上でも必要な話ですね。

差別化を図ってむしろ高く出ろ

学習者に負担はかけられないといって、いつまでも外国人特にアジア人は日本よりも貧しいと思い込んで、授業料を高くしていないでしょうか。そのため待遇をあげることができずに日本語教師の奉仕の精神、やりがいにすべてを任せていないでしょうか。特に日本語学校の原資のほとんどら授業料ですからここを変えないことには何も変えられません。

ではどうすればいいのでしょうか。留学生の中には遊学している学生も一定数いると考えられます。そういうった遊学ができる中間層から富裕層をターゲットとした学費が2倍3倍もする学校がどれだけあるでしょうか。

高い授業料の日本語学校があった場合、質の高い授業、学ぶのに適した学習環境、留学生活が華やかになる居住地域など、高くてもその価値に対して払える人は一定数いるはずです。学費を高くできれば、日本語教師への給料を上げることもでき、学習環境にもお金をかけることができ、アクセスのよいビルで運営をすることもできるかもしれません。

実際に日本の大学にある留学生別科などはそれに近い状態でしょう。違う点としては留学生別科は日本人学生の大学への学費が支えている点にあります。大学の人数は日本語学校の何倍にもなりますので、単純な真似をするわけにはいきませんが、少なくとも1つ待遇を大学の留学生別科と同じ程度まで持っていくには目指していかなければいけないと思います。

高い給料を払えば質の高い授業ができるというわけではありませんが、志が高い日本語教師が集まると考えられます。質の高い授業が出来れば、いい企業や大学へ進むことができる留学生も生まれ、求人や企業、大学広告も集まり、別の収入が生まれることだって考えられます。もちろんそこには良い学習環境、利便性の高い所在地、などコストはかかりますが、そのためにも高い授業料が必要です。日本語教師、留学生、学校経営者がやりたいことを実現するためにはお金が必要なのだからガンガン高くする日本語学校もあっていいと思います。

AIでこんなことが出来れば実質賃金UP?
とはいえ、授業料をあげるとなると既存の学校には難しいかもしれません。そこでAIの力を借りて少しでも賃金アップに繋げるためこんなことができるのではないかなぁというアイデアを次に共有したいと思います。

アイデア1:状況説明のイラストは画像生成AIに。
一生懸命導入や練習に必要なイラストを書いたり、探している教師も多いと思います。意外と意図したイラストを用意するのは難しいものですよね。それを画像生成AIが正確に作ってくれる日もすぐそこに来るでしょう。そうすれば日本語教師の実労働時間に対する時給も上がるはずです。 

詳しいソフトウェアの名前等はわかりませんが、文字で要求した絵が生まれれば練習問題に出てきた文章のシチュエーションなどがイメージかされ、文化が異なるビジネスシーンなどの勉強にも活かせるので、短時間でハイクオリティのモノが使えれば一石二鳥です。

教科書に応じてそういったイラストを保管していけばさらに準備が不要になっていき新しい教科書になるまでは負担が減り、さらに実質賃金アップかもしれません。

アイデア2:練習問題はAIと。
練習問題といってもJLPT対策のような問題です。授業の最後45分~1時間くらいは機械的な練習であれば人間がやっても機会がやっても問題を解いて答え合わせするくらいだったらAIがやればいいと思います。分からないことはクラスメイトに確認するなどの要素を授業内に組み込むことができれば、そこに教師はいなくてもよいかもしれません。

また、授業内でクラスメイトに聞いても分からなかったものは常勤講師に確認すればその分、非常勤講師の時給は発生しないことになります。そこで、3時間分の給料を2時間の支払いに充てることができれば時給を挙げることができ待遇が変わるはずです。AIとうまく付き合えばアイデア次第で学習者も日本語学習者も満足できる運営ができるはず。

アイデア3:諸々の説明会は母語の資料をAIに翻訳させて終了。
留学生のサポートを積極的に行っている学校は様々な説明会を実施していると思います。こういった説明会には一定の日本語力か対応できる範囲での言語での通訳・翻訳が入るかと思いますが、今後はAIが翻訳・通訳に入り常勤講師や事務方の仕事量も減らすことができます。

そうすることで常勤講師も自宅での準備時間が減り、実質賃金がUPします。事務方の業務量も削減することができ、申請業務や留学生受け入れなど学生と向き合った業務や運営に集中することができ、さらなるサービス向上に繋がるはずです。

こんな感じでAIを理解することができれば、様々なメリットが生まれます。AIを使ってみるだけでこれまでできなかったことができるようになる可能性があるので、発想の勝負で日本語学校の業界が特色を持った業界になっていくかもしれません。

全てはアイデア次第。学校経営者は授業料アップを考え、日本語教師個人は少しでも実質賃金アップを目指してツールを使いながら考えていかなければなりません。これからの日本語教育は待遇がサービス向上に繋がると真剣に考えている学校が増えるといいですね。

3節.キャリアと日本語教育

日本語教師の中でキャリアに悩んでいる人は多くいると思います。一人暮らし、介護、結婚、出産、育児等のライフステージを考えている人にとって日本語教育は正直相性が良くない世界かもしれません。

収入面で一番稼ぎがいいのは大学教員か実績あるYouTuberでしょうか。それでも任期付じゃない席や安定した広告収入が手に入る方はさらに限られます。加えてそんな活躍している人が仕事をしている時間は8時間以上/日ではないでしょうか。僕が知ってる範囲では年収400万を超える教務主任がいますが激務ですし、その年収でさえも全体の日本語教師からしたらわずかでしょう。

稼ぎが良くても家庭と仕事の両立は非常に難しく配偶者が稼ぐか、配偶者が家庭を支えるかになって来ると思います。

配偶者がしっかり稼ぎ、共働きでなくてもいいくらいで、お小遣い稼ぎで日本語教師として働いている人はある意味幸せです。裏を返せばお金の心配をしながら働かなければならない業界です。どの仕事でもお金の心配は尽きませんが、時給で働く非正規労働がほとんどの世界。キャリア形成していこうと思うと断片的なキャリアの積み方を考える必要がありますが、教務主任などを目指すには年数も関わりますし、タイミングもあるので断片的なキャリア形成も難しさを感じます。

これでは若い世代は配偶者ガチャ?親ガチャ?色んなガチャガチャの上に偶然が重ならないと続けてやれる人は少ないですよね。本当にそれでいいんでしょうか。見限られてしまう日本語教師は本当にいいんでしょうか。若い人が夢を描けない仕事をしているというのはどうなんでしょう。

大学教員を目指そうにも大学院進学が必要で、YouTuberで頑張るには1年以上は続ける必要がある。一度出産育児で外れると席がないなんてことも。コストのかかる日本語教師が職業としてキャリアを築くにはやはりきちんとデザインされた教育機関を作らなければ実現できないのではないでしょうか。一方で留学生を受け入れる日本語学校の新規校は審査が厳しく参入が面倒かつ自社ビルの用意などハードルが高いので生半可な気持ちではやれないのも事実です。

日本語教育を活かして働く

キャリアについて考える上で、日本語教師を目指す人は日本語教師およびその周辺でいわゆる先生と呼ばれる立場で働くことがほとんどだと思います。
だからといって、それ以外の職業に就けないのかと言われると当然そうではありません。

現に私も今となっては商社マン、職場には日本語母語話者のみ、英語を始めとした外国語も使わない、お客様にも外国の方はいないそんな感じで働いています。だからといって日本語教育からきっぱりおさらばという訳でなく、こうしてつらつら書く時間が生まれました。

では現実的に具体的に日本語教育が活かせるのはどういうところに可能性があるのでしょうか。

まず今日現在で考えられるのは公務員、人事、総務などです。外国人住民と関われる公務員は日本人を対象としたサービスが業務のほとんどだと思いますが、外国人集住地域においては日本語教育の視点を持っている人は必要だと考えられます。近年は防災の観点などからやさしい日本語や情報の多言語化が進みつつありますかが改善の余地はまたまだあると思います。

また、人事、総務職は外国人従業員への日本語教育や海外赴任の日本人従業員に対して、言葉の習得や異文化トレーニングなどできることはたくさんありそうです。もちろん民間で働く場合それ専門で働ける人は極々わずかでしょう。もちろん最初からできるとは思ってません。ですが、企業研究を行い、ターゲットを絞りそういった面に力を入れている会社に入社していくことも1つの手だと思っています。裁量を持つのに時間がかかるかもしれませんが、日本語教育を活かすという観点ではありだと思います。

積極的にいく場合は、日本語教師としてや日本語学校の運営等に関わり、中途採用などでアピールして合う会社があれば入社後も積極的に日本語教育を活かしていけるかもしれません。こればっかりはさらに狭き門になるかもしれませんが、アンテナは張ってみてはどうでしょうか。

その他にも日本語教育を活かすという視点に立てば働く場所は意外と増えていきます。日本語教育を職業に落とし込むのではなく、働き方に落とし込むということです。ひたすらにこういったアイデアを出し続けるのです。そういう思考回路がこれからの日本語教育には必要だと思っています。

若い日本語教師やこれから日本語教師を目指す若い方には日本語教育に興味を持ったその気持ちを諦めないでほしいです。もちろん日本語教師として活躍するのが理想なのかもしれませんが、日本語教育は業界ではなく考え方そのものです。その考え方をもっていれば貢献できると思ってます。だから思い切ってやってほしいと思います。それが日本を動かします。

キャリアに関しては現在進行形の問題ではありますが、これからもキャリアと日本語教育は業界の責任としても考えなければならないことかもしれません。

4節.日本と日本語教育

日本の政治経済と日本語教育は関連しているなんてことを学生時代に聞いたことがあります。例えば経済的によい時期であれば日本で働きたいという人が増え、留学生数も増加なんてことがあったり、労働人口が減り移民的な政策で外国人を呼びそこで日本語教育が行われるとか、アニメなどのコンテンツが世界的に広まり趣味的に日本語を学ぶ独学の学習者が増え、JLPT
受験者も相対的に増加するなど意外と左右されるみたいです。

近年の動きとしてが日本語教育の推進に関する法律が成立、登録日本語教員の誕生など国としても日本語教育に力を入れていこうという方向性になってきました。移民的な政策に関しては賛否両論あると思いますが、革新的なAIの活用、FA技術の向上などなしては移民は避けられないかなと思っています。そういった意味でも日本語教育は必要性が高まっています。

男女雇用機会均等法が成立して40年近くたち、女性の管理職も増えてくる兆しがある一方で、労働者不足と賃金安も背景に女性の労働者も増え共働き世帯も増加。そうであっても子どもが産めない状況も増加傾向と聞いたことがあります。それでもどんどん働いてもらおうとする日本には労働力が足りません。世界人口は増えていて日本は減っている。本当に避けられません。コンビニ業界は留学生なしではやっていけません。

必要性が高まり、業界によっては外国人なしではやっていけない状況ですが、国は法律というフィールドを作ってくれているにすぎません。この状況で何をフィールド上に形成するかは僕らの仕事になっているんです。あなたはどうしますか?登録日本語教員になってどうしますか?「あーこれからも日本語学校で働けるからよかった。」ですか?

正直これから外国人は労働、観光でどんどん入って来ると思います。特に労働では放ったらかしにすると日本人もどんどん衰退します。日本語教育はインフラです。整備すればするほど日本は豊かになるはずです。そんなふうに思ったことがない人もいるでしょう。それはあなたが学習者と向き合っている証拠かもしれませんが、インフラなしでは学習者はありません。

正直なところを言えば、日本語教育というインフラを整え、乱立している日本語学校と日本語ボランティア教室を一定の基準に合わせて行く必要があると思っています。それはISOやJISのような規格として。書類による審査とは別に監査員による監査。日本語学校の数は中小企業のように莫大な数があるわけでもないので外部監査員は日本語教育学会などから選出し、専売特許となる団体が生まれないようにする工夫をするなどした方がいいと思います。

個人的には教師の質はもとより、日本語教育機関の質を上げ経営者、運営者層に自覚を促す必要があると思います。どうしてもこういうのは形式的になったり、利権が生まれたりするので他にいい方法はないか考えているところではありますが1つのアイデアとしてそう思っています。

日本は法整備をしつつ、日本語教育に競争力をも生んでいるわけです。競争力というと薄利多売みたいなデフレ的思考が出てきますが、これからは良いサービスを高く売っていき質を保つ、こういう循環を生もうとしているんだと思います。一方で売り方は自分たちで考えろというのが普通ですから、法整備されて喜んでは何も変わりません。

そうなると一人一人が考え実行することがこれからの日本語教育を左右します。僕らは自律的な行動が望まれます。僕みたいにまず言葉にしながら誰かに伝わりそれが次の言葉を生み、一歩ずつ前へ行けばいいんじゃないですかねなんて軽く考えるところからでもいいんじゃないかと。。。日本のことも考えて日本語教育を生きるということもこれからの日本語教育には必要になってきてほしいですね。

以上、4章は希望を言うばかりでしたが、書きたいことを書かせてもらいました。実際に様々な日本語教育現場に立っている方々からしたら、もうやっている、知っている、頑張っているというお叱りの言葉をいただきそうですが、正直これまでの自分のキャリアを考えても日本語教育からおさらばというわけにもいかないなと思ったので、足りない頭で今まで溜めていたものを解像度粗目でお届けした次第でございます。

何が正解か分からない世界ですし、正解を言いたいわけでもないんですが、1つの思想として何か伝わればとても嬉しいです。

長文お付き合いいただきましてありがとうございました。

かんじ



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