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032 文化は百姓

文化は百姓
 どうしてカルチャー(文化)は、田畑を耕すから転じて、心を耕す意で発展していったのだろうか。
 田畑を耕すように心を耕すのが文化の本質にある。でも、そういってしまえばそれまでであるが、しかし、それでは違う気がする。素直に考えれば、田畑を耕せば、心も耕されるであろう。また、そう感じた人が多かったので耕作が文化の意で浸透したのだろう。単なる洒落だけではない。実際自家用の田畑を耕せば、いろいろなことを自問自答してしまうものだ。そして、それが個人の文化の芯となっていくのである。
 どうして、心を耕すことを肯定してきたのだろうか。
 心を耕すとは、心の柔軟性を作ることに他ならない。言い換えれば、しなやかな心を作ることである。それは、折れない心でもあり広い心にもなる。そして最終的には優しく強い心に通じる。田畑を耕すことは、つらく楽しく、大変なようで心地よく、適度にやれば、飯が美味くなり、よく眠れ暮らしに通じている。これは百姓の暮しそのものである。百姓をしていれば、だれにも頼らないで生きられるという気持ち(尊厳)なれる。それは、生きていく上でなによりも強い芯になる。
 文化は百姓に通じ、百姓は尊厳に通ず。文化とはそんな尊厳を伝えるものではないか。いやそうでない。より正確に表せば、文化とは伝わる尊厳なのである。

真っ赤な百姓
 自家用の農作物のほとんどは作るより買う方が安い。いくつか要るものを自分で作っても、その他の種や苗をから始まり、肥料、農薬、機械、燃料、資材など買うからである。しかし、それだけではなく、決定的なのは最低賃金として自分の人件費を計算に入れてしまえば、市販のものより確実に大幅に高価となり、まっかっかと言える。それでもなお田畑を続けている人達がいるのは、なぜか。
 お金が大事なのは田舎も同じ。いや田舎にはいろいろな付き合いがあるので都会以上に経費がかかる。それでいて、都会に比べ割のいい仕事は少ない。となれば田舎では都会よりもお金を大切にする必然がある。それなのに赤字の百姓を続けるのはなぜか。
 答えは簡単である。お金よりも大事なものがあるからである。それが百姓の心意気であり、自分ことをなるべく自分でしようと考える価値観であり、人の尊厳なのである。
 これはなにも、田畑を作るだけではない。ほとんどのものごとは、自身で作るより、プロの作った(社会から提供される)ものを買ってきたほうが、圧倒的に安価なのである。それでも色々なものを家庭菜園やDIYや色々なものを手作りをするのもまったく同じ動機が根底にあるのである。

無駄の少なさが文化の尺度
 文化のなかでも食文化は文化の中心にあるものの一つである。だれもが関心があることでもあるし、耕作しただけでは意味がなく調理して食べてはじめて意味をなすからである。
 また、ある素材をどれだけ利用し尽くすかがその民族の文化レベルと見る見方がある。それは知的歴史が集約するからである。換言すれば、無駄を出さないことが文化レベルともいえる。無論、無駄が少ないのが文化のレベルが高さとなる。
 となれば今のゴミの量の多さもさることながら、実際の仕事や生活に不要の知識を一時的に習得する勉強や、また何の生産もなくただ運動して汗をかくスポーツや散歩といった比較的新しい習慣は、どれだけ無駄な炭酸ガスを発生させ、無駄に環境に負担をかけているのだろうか。表の今の高度な文化社会とは、その高度な分だけ低度なのである。
 だた、すべてを使いきることが文化の本質にある。文化を大切にするとは、捨てないことである。社会も個人も同じである。自分自身を無駄にしない率が自分自身の文化率である。

自己文化
 食料自給率を国という単位の社会だけに当てはめればいいことなのか。社会という他力といくら同化を試みても、個人は社会と一体にはなれない。また国という単位だけで考えればいいというものでもない。国にとって食料自給率が文化の高さなら、個人においても同じことが言えないか。
 結局は、自身の頭と心と体をどこまで耕すのかが自己の文化と言える。また、どこまで無駄なく生きるのか。細胞を腐らさず、最後の一つまで使い切れるか。それが自己の文化のレベルである。それをするのに最も合理的な方法が古来より暮らしであり、自給自足なのである。なぜといって、自身を生かすために、頭と心と体はついてきたのである。

文化のなかの文化
 文化のなかでもっとも文化らしい文化とは人間の精神の所産すべてという意である。すべての文化の意に通じている核心である。善い・悪いのニュアンスからも外れている。
 また、文化の語源が示すところの真は、耕作であり百姓である。
 これらを合わせて考えると百姓の精神の所産こそが文化の尊厳といえる。百姓の基本の精神とは自給自足である。広義の文化とは自給自足に始まり、その余剰が生み出しているものすべてである。しかし、いつの間にかスポットライトが当たるのは、常に余剰の方であるが、文化の根源の真は自給自足にある。
 実際、大先輩方に見せて教えて頂いた、畦塗り、鍬振り、苗とり、刈った草をまとめる小手がらみ、稲刈り、ハザつくり、炭焼き、味噌づくり、干し柿など、自給に関わることは、すべて芸術的であった。仕事に手戻りがないような手順、動きの無駄の無さ、圧倒するスピード感とリズム感、ひとつひとつがどうでもいい加減のように見えて丁度いい加減に収まっている。見ていて惚れ惚れするが、見ていては仕事は進まない。合理的な動きは、簡単そうであり、使用する体力も少なそうに見える。しかし簡単には出来ない。ベースに圧倒的な体力がある。よく見れば、強そうな皮膚をして、その下には強い筋肉があり、それを支える強い骨がある。この強さは、生き方の違いを如実に示す。全く無駄のない強さがある。どれほど近づくことができるのだろうか。
 百姓の仕事は何をとっても文化そのものである。出来る人の仕事は芸術的である。その基本には自給自足の精神がある。それが何事にもよらない自己尊厳なのである。
 田植えの前に祈願があって、収穫のあとに感謝祭がある。神事はすべて百姓から来ている。その神事をみれば、文化の真髄がある。氏子になれば、知った顔の人たちが、能のような動きを見せる神事に出会える。芸以外のなにものでもない。こういった芸の伝統は世界各地に今もあるのである。

文化を壊すもの
 日本では今も各地で過疎が起きている。その過疎の引き金になったのはなんであるか。明治になって、税法が変わり、土地に一律税金がかかるようになった。それまで出来高による物納だったのが、現金が要るようになった。現金は明治政府が強兵するために必要だった。その明治政府が富国強兵をもとめた理由は先ほど見た。しかし、それでも大きな過疎は起こらなかった。
 大きな過疎が起こったのは戦後である。特に引き金になったのは、僻地への電気・電話・水道などのインフラ整備である。インフラが整備されると確かに暮らしが便利になる。しかし、それまでの自給自足的暮らしが一変する。それと同時に固定された現金が必要になる。その現金を稼ぐことは田舎では難しい。だから都会に出て行くのである。
 また、それにあわせて高等教育を受ける。それにそぐう給与をだせる仕事が田舎にはない。だから都会に居残ることになる。
 ほかには情報である。新聞や雑誌、ラジオやテレビで情報を得る。それでそれまでの志向を変え、新しい志向を身につけるのである。そうして自ら進んで出て行くのである。
 なにはともあれ、インフラが設備され、経済の中に入っていく。そうすると過疎が進んでいくことになる。新しい文化が古い文化を壊す、そんな経験を日本各地でしている。それでもなお、その教育施設を含めるインフラ整備を世界各地で進めているのである。

食文化
 「食」は和語では「食べる」である。「食べ」の語源は「賜(たま)へ」である。「賜へ」の元の形とは「賜ひ」である。その「賜ひ」の語源は「魂(たま)」「合ひ(あひ)」である『岩波古語辞典』。
 だから、もともと食べることは魂を合すことだったのである。それは魂の合うものを食べていたということである。そして、今も昔もなにをどう食べるかは個人の自由なのである。
 江戸末期から明治以降、米は玄米から白米になった。小麦粉や砂糖や食物油を輸入し使うようになった。普段から野菜や肉や果物や菓子を食べるようになり、酒やジュースを飲むようになった。それまでの五穀や野のものを中心に食べていた暮らし減っていった。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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