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064 一生が仕事

一生とは有限である。
始まりがあって、終わりがある。
生で始まって、死で終わる。
一生とは生死の間のことである。

生きているのだから、死ぬに決まっている。
そんなことは子供でも知っている。
普段は意識しないのだが、ごくごくたまに考える。
死とはなんであるか。

しかし真剣に考えれば、怖くなる。
足の先から細胞のひとつひとつがしゅわしゅわと消滅する幻覚を見たことがある。
その時、恐怖に顔が青ざめた。
それでも、本当のところは何一つわからなかった。

ただ、死ぬ直前のことを考えることは可能である。
その時、なにをどう感じるのだろうか、と。
その時、多分知ってしまうだろう、自分の一生とは何であったか。
その時は問答無用に近づいている。
言い訳がなにも意味を持たない世界が刻々と近づいている。

だから知りたいことがある。
「一生とは何であるのか」
いや、知らなければならないことがある。
「なぜ、一生とは何であるのか、知らなくてはならないか。」
それらを知るのが一生の仕事である。

「したいことをすること」が仕事である。
また、「しなければならないことをすること」も仕事である。
合わせば「したいことをしなければならないこととし、すること」が仕事になる。
なければ逆にし「しなけばならないことをしたいこととし、すること」が仕事でいい。

仕事は漢語ではなく和語である。
日常茶飯事に使われることばである。
和人であれば、しっかり知っておきたいことばである。

現代にはいろいろな仕事がある。
学生は学校に仕える学業という仕事がある。
主婦は家族に仕える家事という仕事がある。
主人は会社や客に仕える職業という仕事がある。
家族はバラバラな仕事をしている。

世界も国家も自治体も会社も家族も夫婦も社会である。
その中で役割分担の配役を演ずるのが仕事である。
だから社会へ仕える事が仕事である。
自分の社会性を存分に知ることが出来る。

これは非常に楽しく辛いことである。
他人との比較対照がしやすいことである。
優劣が簡単につき、それが人生を彩る。
努力がわりと簡単に成果になる世界である。

しかし、それだけでは自分を充たすことはできない。
自身の社会的価値だけ知っても、自身のすべて知ることは出来ないからである。
自身には他の価値がある。
他の価値こそが厄介なのである。

前述したが「幸福」は以前「幸せ」であった。
「幸せ」は以前「仕合せ」であった。
「仕合せ」は以前「為合せ」であった。
「為合せ」という名詞は以前「為合わす」という動詞であった。
「しあわせ」は、自ら動いて獲得していた。

「為合わす」とはなんであろうか。
「為合わす」とは、なにかとなにかを為て合わすことである。
なにとなにをして合わしていたのだろうか。
一生を生きることと一生仕事することを合わせていたのではないか。

どんな仕事が一生の仕事にふさわしいのだろうか。

一生できる仕事が一生の仕事にふさわしい。
一生必要なことが一生の仕事にふさわしい。
一生しても禍根を残さない仕事が一生の仕事にふさわしい。
一生かけてもすべてを把握できない仕事が一生の仕事にふさわしい。

だれでもその気になれば出来る仕事が一生の仕事にふさわしい。
だれがしても問題がない仕事が一生の仕事にふさわしい。
だれにも、やっかまれない仕事が一生の仕事にふさわしい。
だれとでも、共通の話題になる仕事が一生の仕事にふさわしい。
しかし、だれとだれもが全く一緒にならない仕事が一生の仕事にふさわしい。

自身のために頭を使う仕事が一生の仕事にふさわしい。
自身のために心を使う仕事が一生の仕事にふさわしい。
自身のために体を使う仕事が一生の仕事にふさわしい。
自身を知るために、頭と心と体を使う仕事が一生の仕事にふさわしい。

命を扱う仕事が一生の仕事にふさわしい。
魂を扱う仕事が一生の仕事にふさわしい。
まこと(真・実・誠)を求める仕事が一生の仕事にふさわしい。
自然を扱う仕事が一生の仕事にふさわしい。

自己責任を取れる仕事が一生の仕事にふさわしい。
言い訳しても無駄な仕事は、言い訳不要な最後を迎えるのに最もふさわしい仕事である。

自力自給とは唯一、古今東西、全人間がおこなっても問題の少ない仕事である。
尊大な自己を持つ人間を押さえつけるのに、最も適した仕事である。
しかし、そんな合理的で効率的な暮らしは、いつの間にかどんどん消滅している。

もっと尊大にもっと強欲に。
中途半端では自身を生殺しにしてしまう。
徹底して明らめれば、それでやっと自然な諦めになり謙虚になる。
それにはいつかは気づき、すべてを対等にする思考性が人間にはある。

仕事とは仕える事である。
主を社会とし、それに仕えることだけを仕事とできるのだろうか。
その仕事は、社会の要請に応えられなくなくと無くなってしまう。
要請とは命(メイ)である。
命(メイ)とは命(いのち)である。
大切な命を他に預けることは不可能である。

社会とは、対峙するのにふさわしい対象である。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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