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067 種無し争い

昔は奴隷を獲得するのが争いの種だったこともある。
生産力を増し、軍事力をつけ、敵対するものをはねつけるためである。
交流は少なく、独立していた。
独立を維持するために、大きくなることが必要だった。

しかし今、人間は機械より正確で多量に仕事をこなせない。
複雑な計算は安価なコンピューター(電子計算器)にもかなわない。
それに、人間はインターネットより多くの情報を記憶できない。
彼らは不平を言わず、少しのエネルギーで全くよく働くのである。
なにも、無理して人間を奴隷として使う必要はない。
だから争って、人間を奴隷に使うために獲得しようとすることはない。

以前は土地を獲得するのも争いの種だった。
生活を豊かにするためであった。
隣に負けないためであった。
隣の隣にも負けないためだった。

しかし今は世界各国が流通で結ばれ、物資はなんでも安価に手に入る仕組みがある。
食料でも木材であっても、安価に手に入る。
資源であっても争って獲得するより普通に買うほうが安いのである。
プロが考えた効率的な仕組みが出来上がっているのである。

なにも肩代わりしてやる必要はない。
それに住むだけなら、なにも外国に行きたくもない。
特に争って、住民感情を悪くしたところに住みたいはずはない。
土地を獲得するために争う理由はない。

人種の違いが争いの種だった。
しかし、人間は遺伝子的にも種類が少なく確固たる違いないのである。
人種とは単なる育ちの違いでしかないのである。

以前は宗教が争いの種だった。
争う元となるように世界に広まっていったいくつかの世界宗教がある。
その教義の違いが争いの種になった。
しかし、世界宗教の創始者とされる方々は何も記していないのである。

それに神道などのアミニズムと言われる古い形態の宗教にもドグマ(教義)はない。
未開と呼ばれる地の宗教と慣習の一体のなったものも記述がない。
本来宗教には教えそのものがない。
だから、宗教の違いは争いの種になりようがない。

宗教とは、生まれて死ぬまで心を落ちつかせて生きる習慣であり伝統なのである。
争って心を乱すのを薦めるのは宗教の本質からずれている。
基本的には他の宗教には無関心を装い距離を取るのが宗教なのである。
そんなことはどんな宗教でも同じである。

相手の武力の差が争いの種であった。
しかしこれも争いの種にはなりえない。
武力が高い方は、この優位な状態こそが理想の状態である。
低い方も負けるのが分かっていて戦う理由を敢えてつくることはない。

それに武力の情報公開をしないことも争いの種にならない。
どこの世界にそんなものを公開するのだろうか。
最も大事なところはどこだって非公開である。
すべてを相手に知らしたら、馬鹿で無い限り、それに対する方策が取られるのである。
武器とならない武力は武力でなくなっているのである。
こちらにも秘密があるように相手にも秘密があるのである。
あばく必要もあばかれる必要もない。
これが全てです、といって本当に全てをさらしみよう。
しかし、誰一人それを鵜呑みにすることはないのである。

だから今の社会の間に争う種はない。
今ある争いは、なにを種にしているのだろうか。
社会にないとすれば個人である。
次に個人的な争う理由を考えてみる。

個人のもっとも大切とさせるのは命である。
しかし、その命を大事にすれば、争いは起こらない。
争えば命を危険にさらすことになるからである。
命を理由に争いにはならない。

命の次に大事なものといえばお金である。
税金から始まるように、お金がなくては暮らしていけない。
そのお金が社会の安定がなければ、いくらあっても、なんの役にも立たない。
お金は物やサービスと交換してこそ意味をもつものだから。
争って獲得し、社会不安を起こせば、通貨の価値も不安定になってしまう。
お金は、争う種にはならない。

仮に、争って、存分にお金を獲得したとして考えてみる。
そのお金を使い広い家に住んでも、全ての部屋を使いこなしきれない。
多くの服を持っていても、全てを着こなせない。
多くの車を持っていても、乗りこなせない。
一日に食べられる食糧の量も質もほぼ決まっている。
寝られる時間もほぼ決まっている。
性交できる回数もほぼ決まっている。
そんな必要以上のものを獲得せんがために争そうことはできない。
いくら真剣になろうが、アホらしくなるのである。

だれかを羨ましく思い、それが争いの種になるか。
しかし、本当にそれを獲得すれば、自分を満たすことができるのだろうか。
争ってまで獲得して、それで心底満足させられるのか。
到底、満足させられそうにないのではないか。

相手がよく見えるのは、自分をよく見ていないだけである。
相手に感じるうらやましさは、相手のうらである自分自身に対するやましさである。
相手を通じてみているやましい自分をなんとかしないと解決しないのである。
相手をどうこうしようとするほどに、解決できなくなる。

人間は本質的に他人の作ったものでは満足出来ない。
それがいかに価値が高くてもである。
いずれは飽きることになる。
その過程に自分がついていないからである。
そんなことは、誰もがうすうす気づいていることである。
他人の作ったものを争いの種にするほど、たしかなものではない。

一味足らないものだから、一時的にいっぱいほしくなる。
そういった餓えた状態とは我を食っている状態なのである。
何かを自分に与えても満たないのであれば、与えているものを欲していないのである。
我慢すれば魂はゆがむのである。
ただ満たすものを与えればいいのである。

それに、もともとまで経緯を調べれば争う種にはならない。
個人間であっても社会間であっても同じである。
争う種が無いのは、非常に寂しいことである。
その寂しさをそろそろ受け入れなくてはいけない。

争えば、ゲームにようになって楽しくなる。
争えば簡単に優劣がつくからである。
しかしその優劣はなにに基づくのか。
そのルールに基づくのである。

優秀さとは、ただそのものごとを受け入れている度合いなのである。
自分をなくした度合いである。
頭を白くした度合いである。
優秀さはそのものに従属している度合いなのである

争うとは、争う種に従属することである。
潜在的には、それを欲している人はないのである。
他人と争っていても、ただ見難いだけである。
だれもが知っていることである。

そもそも争いは、自分の中でするものなのだから、お門違いである。
理想の自分と現実の自分、頭の自分と心の自分と体の自分、過去の自分と未来の自分。
自身に対峙したがっている自分はたくさんいるのである。
そこにこそ、相手に足る相手がいるのである。

その自分に負けてはいけない。
その自分を打ち負かしてもいけない。
いずれにしろ、歪むだけである。
ただその存在を認め、丁度いい距離をとり、対峙するだけである。

自身の争いの種を減らせば、確実に社会の争いの種を一つ減らしている。
争いの種は決して自分の外にはない。
自分の外にある種は、他人の領域の種なのである。
争いの種は当人しか始末できないのである。

誤解であれ、イデオロギー(主義)であれ、なんであれ争う種には値しないのである。
神様だって争う種は作れないのである。
今ある争いは、架空の争う種を奪い合っているのである。
それを奪い取ったところで、架空なのにである。

すべての争い、競争は茶番なのである。
だから、いくらまわりが盛り上げても、すぐシラケルのである。
いくら共感しようとしても、出来ないのである。
どこを探しても私にはその争いを許可した覚えはないのである。

仕舞には、忙しいから、付き合いきれなくなるのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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