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033 幸福は百姓

幸福主義
 人生に目的があるとすれば、幸福になることだろう。そんな風に大学時代に考えていた。そして紆余曲折した今もそう考えている。私は幸福主義に分類されるであろう。
その幸福とはなんであろうか。現代において   「幸福とは、すべてが満ち足りていて、不安や心配がない状態」と定義される。これは、現実には不安や心配事などがあり、満ち足りていなく不足感ざつきまとうので、そこから解放されたいという欲求である。こういった欲求を持つことは、古今東西の人間に共通すること、すなわち普遍だと考えていた。
 しかし、いつだったかあるテレビ番組で「幸福」ということばを持たないアフリカの民族を紹介していた。この時かなり驚いた。幸福がないということは、不幸もないということだ。幸福や不幸などにこだわっていない、超越しているように思えた。自然な生き方をしていれば、幸福とか不幸とかに捉われないということだろうか。ただ幸福主義は、普遍ではないことを知った。

幸福は英語から
 「幸福」ということばに興味をもったので調べてみた。明治以降に心理学や倫理学から入った英語の「ハッピネス」の翻訳語である。幸福を和語でいえばしあわせである。そのしあわせの元意は運命であり、これはハッピネスの語源のハップの出来事や運命と通じるところがある。
 明治の当時「しあわせ」には、不安がなく快楽な状態とか満足している状態という意味はなかった。そこで、幸福ということばを作った。(幸せを願う意で幸福ということばが元々あったようだが、当時も今もその意ではほとんど使われていない。)明治以前には現在の意の幸福という言葉がなかったのである。だからアフリカに限らず日本においても幸福という概念はなかったのである。文明開化したときの西洋の学問から入ってからのことばなのである。
 そうして出来た幸福は、しあわせ・さいわいという表現で使われた。それが現在の、すべてに満足する・不安がない状態の意として、浸透するのにかなり時間を要している。意味の変化に敏感な見坊氏の三省堂国語辞典の第一版(昭和三十五年)ではしあわせ・さいわいとしていたが、第二版(昭和四十九年)から①自分が満ちたり状態にあると感じること。②何一つ心配や不安のない、恵まれた状態。としている。現在の意は、高度成長以降に浸透した意味なのである。
 日本であっても、ほんの百年前には市中ではほとんど使われていなかった。だから一般の国民は幸福になりたいなどと考えていなかったということになる。だから幸福主義は、日本国内においても、古今に通じない戦後の比較的新しい考え方であることを知った。それに幸福主義そのものは廣辞林(大正十四年)から載っている、倫理学から入った考え方なのである。けっして自発で考えたことではなかったのである。

幸福と不幸の間
 幸福の反対は不幸ということでよく辞書にも記載されている。不幸は古語辞典にもあるように幸福よりも前にあることばであり、親類縁者の死という意味であった。昭和に入って、この不幸に不幸福の意味がつくようになった。しかし、本当に幸福の反対は不幸なのか。この二分割はあまりに極端になる。そこで幸福とはなにかもう少し詳しくみると、幸福には、幸運すなわち吉という意味もある。吉と言えば、神社のおみくじが勝手ながらに思いつく。ここでおみくじで吉を考えてみる。
 大吉→中吉→吉→小吉→末吉→凶が大体のところの標準のいい方からの順序である。
この吉を幸福に置き換えてみると、
 大幸福→中幸福→幸福→小幸福→末幸福→不幸となる。
 そして不幸すなわち不幸福とは、幸福にあらざる状態であるので、厳密に字面の意味するところは、大幸福も中幸福も小幸福も末幸福も幸福ではないので不幸となってしまう。ふつう幸福以上の大幸福も中幸福を反対の不幸とすることはないだろうが、小幸福や末幸福を不幸の方へ入れしまうのである。その程度で自分は満足しない、と。最近の常識では常に向上心をもつことが、いいとされる。この場合は、小吉・末吉は明らかに不幸福に入れるのである。
 ただ、おみくじの理解は簡単でもなく、例えば一番いいとさせる大吉が出ても大していいことは書かれていないし、まわりには今が最高にいい時だからこれからは気をつけなさいと言われ、決して大幸福の意味ではない。逆に凶なら今が最悪となり、これからはよくなる一方と言われる。そしてすこし前まで日本らしく大事にされているのが小吉であり、質素で貧乏臭いかもしれない末吉ではなかったのではないか。
 少し前の基準では幸福でないからといって必ずしも不幸ではないということである。幸福とは、中幸福や大幸福になろうとする努力でなく、幸福と不幸の間の小幸福や末幸福を見つけようしたり、感じようとする心構えこそが、古来からの幸福ではないか。大体において、そのほうが幸福になる近道、合理的であり効率的なことではないか。
 今の主流の大きな幸福はすぐ飽きてしまい、より大きな幸福を求めるようになるではないか。ちょっとのことで満足するな、常に向上心を持った方がいいという常識は、いつまでたってもただ不幸でいようとする願望でしかない。「大きな幸福よりも小さな幸福がいい」趣旨のことわざは世界各地にある。

しあわせと仕事
 しあわせの漢字表記について、もともとの古語(明治前)では為合・仕合であった。明治以降、俗語的に幸せの表記もあるが通常は仕合せであった。そして昭和47年の当用漢字改定より幸せと当て字させるようになった。
 しあわせの元意が運命ということ記したが、それ以前、もともと為合せという名詞は、為合わすという動詞からきている。為合わせた結果しあわせという概念になったということである。しあわせない限りしあわせはなかった。概念を表わすことばでは名詞より先に動詞がある。抽象的なもの前に具体的なことがある。
 また、しあわすとはなにかとなにかをしてあわすこと、すなわち二つのことをうまくあわせることである。この2つとはなにか。為合・仕合表記したのだから、為と仕であろう。私は、しなければならないこととすることをあわせるのではないかと考えている。この2つが合えばしあわせだ。しなければならないこと、すること、と言えば仕事の定義である。仕事をすることは幸せとなることに通じている。
 別言すれば、しなければならない自分とする自身とを一致させることは自己同一性の一致であり、アイデンティティを確立させ、精神を安定させている状態なのである。

仕事は百姓
 現代において、仕事をするといえば職に就くことであり、職業を選択するということである。換言すれば、社会のなかの役割分担に仕かえる事である。明治のころに入った翻訳語の職業を古語でいえば生業(なりわい)である。その古語の生業の第一義は植物栽培すること、換言すれば百姓なのである。これらのことを簡単にまとめてしまえば、仕事とは職業であり、職業とは生業であり、生業とは百姓である、となる。これも端的に言えば、もともとから現代まで歴史との一体性を見出せる仕事とは百姓なのである。

幸福は百姓から
 幸福(ハッピネス)とはなにかと考えていけば、しあわせであり、仕合せであり、為合わすであり、仕事であり、職業であり、生業であり、百姓になった。
 英語ではハッピネスのほかにも幸福を意味することばがある。その一つであるエウフォリアであり語源はギリシャ語で収穫である。もう一つはフェリシティでありその語源はラテン語で稔り豊かなことである『ことばコンセプト事典』。
 どちらも農作業のことであり、そこから得られる気分であり、百姓そのものである。英語の幸福も日本語のしあわせもどちらしても多分に百姓に通じている。発音ほど意味に地域差はないのである。
 中国語の百姓には一般国民の意があるが、日本でも百姓は以前、一般国民の意であった。一般国民であれば幸福だったのである。合理的な目標の半分は後ろにあるのではないか。

環境破壊の制御
 農業とは人類史上もっとも初めの環境破壊といわれる。それは偶然ではなく、意図的に地面を耕し、作物を作り出すからである。自然の采配から逃れることでもある。もともとの環境破壊は農業にある。その裏には農作物を作る創造者の振る舞いがあるのである。
 世界各地の砂漠をみれば、もともとは森であったところが多い。人類の文明の歴史が広大な砂漠を作り出し、いまもまだつくり出しているのである。もう十分に砂漠はある。そんなに砂漠が好きとも思えないのに。
 文明以前の初歩の程度の農なら環境破壊は、実はほとんど環境破壊になっていない。人力で自分の食べる分だけの田畑は、手入れをやめればすぐ自然に戻ってしまう。その力は大きく、ただ田畑を維持するのも難儀なぐらいである。
人が多く集まって、そこで役割分担する。そこで全員の農が一部の役割の農業へ変わる。そうして文明は大きくなり、手がつけられなくなって崩壊し、後に砂漠が残っているのである。
 農とは自然と関わる仕事である。土や作物にふれ癒される面がある。しかしそれと同じだけ面倒なことをはらんでおり、楽しいばかりのことではない。
 自然の立場にたてば、なにより田畑を作らず、作物を作らないことがやさしいことである。それにどんな農法であっても、もともとに人為が入っており、自然環境に一方的にやさしいとは言い切れないのである。また、どんな農法にしろ出来たものには、ほとんど差ないのである。農法とは当人が試行錯誤していいと思えるまでやればいい、彩の分野なのである。
 農とは、今後しばらく必要不可欠な環境破壊である。だから他人まかせには出来ないのである。自身の目の届く範囲におくべき事柄なのである。そうすれば、必要不可欠の環境破壊をする自身を知ることもできるのである。
 人に農と書いて、儂となる。その一義は我・わし、二義はあなた・君、三義は彼・人、四義はおきな・老人である『大漢語林』。
人は農で繋がっていた。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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