『鍋』

 雨が降れば多少はマシだが、肌寒い日が増えた。
 扇風機は片付けたし、ホットカーペットも設置した。今頃その上では、飼い猫が腹を上に向けて寝ているだろう。「近所のスーパーに買い出しに行く間くらい、点けてやっておいてもいいでしょ」と、彼女に言われ、そのまま二人で出てきた。

 先程まで着ていた服の上に、適当な羽織をした彼女が僕の前を行く。羽織の肩口に乗る黒髪に引かれながら、僕は買い物かごを手に取る。
 スーパーは、晩ご飯の買い出しであろう客でざわついていた。人が多くいるのは音で分かるが、それぞれの会話の中身までは聞こえない。無害なBGMが、ずっと鳴り続けていることだけは認識できる。

 陳列棚の前を歩くと、冷気に当てられる。僕ももう一枚着てくればよかったなと思う。スーパーでの彼女の買い物は、その日の気分で行われるため、余計にそう思った。彼女の決めるメニューによって、僕らがここを歩く時間は変わる。

「カレーでいい?寒いし、暖まるし。なんとなくご飯は多めに炊いておいたから、君の好きなカレーでも足りそうよ。」

「んん。なんでもいいけど。カレーでいい。」

 僕のその声を合図に、彼女の中で何かが決定されていったようで、野菜コーナーへと足が向いた。
 じゃがいも、にんじん、たまねぎ。あとは、トマトも入れるらしい。皿に盛られる前の、彼女の作るカレーに、何が起きているかを僕は知らない。僕の役目は、彼女が差し出す野菜に対して、カゴを差し出していくことだ。リズムよく彼女がそれを繰り返すので、カレーの中身について深く考えるのをやめた。

 そんな僕らを、一組の親子が追い越していく。
 知り合いでは無いが、母親が野菜をピックアップしていく手つきが、僕の彼女のそれより更に的確だったので、目に止まった。その母親は、カートに載せた買い物カゴに野菜を入れていく。その後ろを小さな男の子が、母親の服の裾を握ったり離したりしながら、ついていく。 
 カゴの中身を見る男の子はなぜか不満そうだ。眉が、両方とも斜めに曲がっている。結んだ口は、何か言いたそうに震えている。

 目の前の彼女の手から離れたレタスが、僕の持つカゴに入る。これは、カレーに入る食材では無い。サラダ用だろう。その奥で、先程の母親が、カートのカゴに白菜を二つ積んだ。
 それを見た男の子が、何かを察して声を上げた。

「もう鍋はいやだああああ。」

 彼は、僕よりも賢い。食材を見て、それが判断できれば十分だ。母親は、その様子を一瞥して、自身の背後の服の裾と、男の子との距離を離した。いつものこと、といった感じだった。
 しかし、スーパーのBGMをかき消す程の音量で、男の子は再び声を上げる。

「鍋は、鍋はもう嫌だああああ。」

 その思いは相当強いらしい。
 小さな男の子にとって、知らない人の前で叫ぶことに抵抗などないのだろうが、あれだけ結んでいた口を開いているのだ。何か嫌な理由があるのかもしれない。ただ、そうも言っておきながら、男の子は母親の後ろを離れないように追っている。
 母親は野菜を選び終わったようだ。鍋のスープの置いてある陳列棚の列に、折れていった。少し遅れて男の子も、同じようにそこを曲がり、僕らからは見えなくなった。

 一連の出来事を見ながら、目の前の彼女が動かないので、僕も一緒に足を止めていた。陳列棚を見るための角度から、彼女の鼻筋が上を向き、横顔のまま僕に言う。

「今日、鍋にしよっか。ちょうど、寒いし、ねえ。いいでしょ?」

「んん。それは構わないよ。僕はなんでもいい、と言ったからね。」

「ありがとう。」

 礼を言われる意味は分からなかったが、彼女のやりたいことは分かった気がする。
 野菜コーナーの終わりまで差し掛かっていた僕らは、彼女の意思により、歩いてきたコースを引き返した。多少の寄り道をしながら、僕の手に持つカゴの中身が、一部入れ替わった。レタスは、いらないらしい。

 鍋の出汁コーナーに僕らが辿り着いたときには、先程の親子はいなくなっていた。彼女は黙って、味噌系と塩系のスープで悩んでいたが、今日僕が食べる鍋は、塩味になった。

 ◆

 購入した食材と一緒に、彼女が助手席に座る。
 駐車場から歩いてくる間も、少し肌寒かった。冷え切った野菜達を、よく膝の上に置くなあ、と感心する。家までは数分なので、その程度のことを我慢するのは、彼女にとって問題ないのだろう。

「なあ、もしかして、僕らが今日鍋を食べることによって、あの男の子の晩ご飯が変わるとでも思ったの?」

「んーん、思ってないよ。たぶん、あの子は泣きながらでも、今日も鍋を食べるんじゃないかな。」

「そうだな。僕らの晩ご飯は、カレーではなく鍋になった。そういうことだね。」

 彼女は特に暗い顔などしていない。それは当然の事として承知しているようだ。ハンドルを握る僕の横で、車の揺れに頭を振られることもない。シートに背を預けてはいるが、肩は縮こまってはいない。

 例えば、日本でこの時期に食される鍋の総数が統計的に出ていたとしても、それは、僕らのようにしてメニューを決めた人の意思も、含まれているのかもしれない。まあ、そもそも僕らのやってるようなことは、統計の数字に影響しない些細な出来事だ。

「あの子も、鍋じゃない日があるよね、たぶん。」

「んん。そうだと思う。僕らと、あの男の子とが、今日同じメニューを食べるのには、それぞれの理由がある。それによって、僕はいくらか多く歩いて、お腹がすいた。」

 先ほど、カゴの中に出たり入ったりする食材を眺めることで、僕の舌はカレーから鍋を迎える準備に移行を完了した。今日は、鍋だ。
 助手席の彼女は野菜の切り方でも、頭に浮かべているのだろうか。彼女が頭で考えている言葉が、彼女の口を動かした。

「カニでも買っとけば良かったかな。」

 違った。蟹だった。
 その食材が出てくる発想元が分からなかった。彼女はスーパーに並ぶカニを見て、何かを思ったのかもしれない。カレーと、鍋と、その思考に加えて、彼女だけの思考の中に、カニがいた。

「スーパー。戻るか?」

「ん。いい。猫くんが、待ってるから。」

「分かった。」

僕はこれから、彼女と鍋を食べる。
カニは入っていない。
 
 
(おしまい)

 

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。