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『手紙の宛先は時を巡って』

 母が既に死んでいることを、本人の口から聞くまで、私は信じていなかったんだと思う。

「沙織、今日はだいじなお話をします。
 あのね、母さんはもう死んでいるの。死んでるって分かるかな? 誰のせいでもなくて、母さんの身体ぜんぶに病気が広がって。それで、母さんの身体は動かなくなって、ご飯を食べることも、息をすることもできなくなったの。──そしたら、人は死ぬのよ」

 幼い私に宛てて、簡単な表現を使おうとしているが、急に直接的になる。
 画面の中の母は、眉の端を下げ、ときどき息をふうっと吐きながら話す。薬の副作用のためか、近く訪れる自身の死を思ったか。
 このビデオレターを初めて見た私は、同じように眉の端を下げ、何を思ったのか──思い出そうとしても、全ての事情を知った後の思考が邪魔をする。

「だから、母さんは死んだの。あなたがもっと小さかった頃に母さんは死んで、もういないの。このビデオも死ぬ前に撮ってるのよ。来年からのビデオもこれから撮っておくの。ふふ、タネ明かししちゃったね。
 でもね、約束して欲しい。きちんと毎年の誕生日になった時に見るって。母さんからのお願いよ」

 そこから先の母の言葉は、何度ビデオを見返しても内容が頭に入ってこなくなる。これだけはずっと変わらない。

「──沙織。誕生日おめでとう。大きくなったね」 
 涙でぐしゃぐしゃになった母の顔で、ビデオは締めくくられる。
 隣の父が言う。
「母さんな、どうしてもこの回だけは泣いちゃって。身体もキツかったろうし、〈もういい〉って父さんが止めたんだ。沙織、ごめんな。母さんの泣いてる顔を何度も見ることになって」
「んーん、いいの。私はね、もっと後になってから知るより良かったと思ってるから──いや、知るっていうか、たぶん分かってたけど。私が確信を持つのには、この母さんの姿がとても大切だったの」
「んん、ごめんな、沙織」
「もう消すね。手紙書くから」

 毎年、誕生日を祝ってくれる母のビデオレターを見て、父にねだって過去のビデオをいくつか見て。ビデオを見たそのままの気持ちで、母への手紙を書くのが私の習慣だった。
 書き終わると、父に読んでもらって、いくつかの思い出話を聞いて。
 そうやって、私の誕生日の夜は過ぎてゆくものだった。

 ただ、一時期の私が思春期だったのは確かで、なんとなくずるをしたくて、12歳の誕生日に2年分の手紙を書いてしまった。13歳の分の手紙を先取りして「中学の勉強は少し難しいけど、なんとかやっています」なんて書いたのを覚えている。
 だって、ビデオの中の母に、時間など関係ないのだから。

 結局、翌年の誕生日には、既に手紙があって、なんとなくまた翌年の手紙を書いてしまった。それから、ずっと1年先の誕生日──つまり1年先の母へ手紙を書き続けた。
 高校生になって、“今のところ彼氏はできそうにありません”なんて書いた翌年には奇跡的に彼氏ができたけど、父には黙っておいた。


 私は20歳になり、例のごとく、今年分の手紙は去年の誕生日に書いていた。
 そして、母からのビデオレターは今年で終わる。父が管理しているビデオの本数なんて、ずっと前から知っているのだ。


 手紙の行き先がない。
 来年の誕生日に、母はもう現れない。
 私は来年の母に宛てる手紙を書けない。

 ひとしきり考えて、私は、またずるをすることにした。何度も繰り返すうちに、ずるをするのが習慣になってしまったのかもしれない。いや、ずるをしてしまえばいい。そう思った。

 一文字を、一文を、ゆっくりと書いた。
 半分に折り畳み、リビングの父の元に向かう。

「手紙、書いたのか?」
「ん。私ずるだから、2通書いちゃった」
 手紙を受け取りながら「え? 2通?」と父が言う。
「いいから。読んで」
 父は2通の手紙を開き、一気に目を通した。2通目の最後まで読み切ると「沙織、これはどういう?」と顔を上げずに口走った。
「あのね、私ね、中学にあがる頃から翌年分の手紙を先に書いてたの。ずるでしょ?」
「それはなんとなく察しがついてたんだ。ビデオと手紙の内容がなんだかズレてるなあって、思ってたから。けど、沙織は手紙のとおりにちゃんとやってたじゃないか」
「まあ、そうなんだけどね。結構大変だったよ、翌年の手紙に帳尻合わせるの。でも、私はずるい子だから」
「んん」
「私は今日書いた手紙で、ずるをして、お母さんに会ったから」
「さおり──」
 父は握り締めそうになった手紙をもう一度開いて、2通目の手紙を見つめる。


おかあさんへ

わたしは おとうさんも おかあさんも
いまも これからも ずっと だいすきだよ

           2さいのさおりより



「もう寝るね。おやすみ、お父さん、お母さん」
「沙織……そうだな。ずるい子に、なったな」

 私は振り向かず自室に戻り、灯りを消した。
 20歳の夜は、想像していたよりもとても静かだった。




(おしまい)




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