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一人称について

私、俺、僕、うち、拙者、某、小生など一人称の種類が豊富であることが、日本語の特徴として挙げられることがしばしばある。

それぞれに微妙なニュアンスの違いがあり、日本語の言語表現の豊かさを体現しているというのだ。

しかし、私は一人の日本語話者としてそうは思わない。むしろ、反発したいとさえ感じている。

まず、上に挙げた一人称の中で、20代前半である筆者が日常的に使用して変な人だと思われないのは、私、俺、僕くらいだろう。それ以外を使うなら個性的なキャラクターで生きていく覚悟がいる。

私、も案外難しい。どうしても女性的な印象や堅いイメージを感じてしまい、友達同士での会話で使うのに違和感を覚える。

僕、も同様に少しかしこまった感じがして、しっくりこないときがある。

では、俺、か。俺という一人称は男性の中では最もポピュラーである。しかし、やはり俺にはどこか体育会系的で、粗野な感じがあり、筆者のセルフイメージに馴染まない。

つまり、日本語の一人称は種類がいくつかあるが故に、それぞれが固有の微妙な印象を持っている。その印象が、この"私"そのものを表現することを阻んでいるのだ。

英語の"I"や独語の"Ich"が示す"私"は記号的であり、単に話者や筆者を明示しているに過ぎない。したがって、話者や筆者に対して一人称がなんらかのイメージを付与するということが起こり得ない。


こういう透明な一人称がほしい。


面接や仕事、執筆など、公的な言論空間では、"私"がこの役割を全うできているように思う。現にこの原稿では"私"を一人称として用いている。

しかし、私的な会話の場では一人称に"私"を使うことに固有の意味が生じ、透明な一人称はどこにもなくなってしまう。

小さい子どもは、一人称に自分の名前や愛称を使う。英語や独語が普遍的一人称によって、イメージを排除しているのとは対照的な手法だが、これも話者である自分自身を自分に固有の名称で明示することで、外からのイメージを退けることに成功している。

私も小学校6年生までは、一人称が自分の名前だった。

しかし、ある日同級生にそのことを指摘され、からかわれた。

それによって、私、僕、俺のどのイメージを引き受けるかを選択する必要に迫られた。

結局、私はその時々での気分によって一人称を使い分けることにした。

使い分けてみた感想としては、やはりその一人称のもつイメージに自分の言動が引っ張られるのであまり快くはない。 

やはり、私は日本語の一人称は豊かな言語表現というよりはステレオタイプを強化して、個の豊穣な多様性を損ねているように思う。

むしろ、英語の"I"や、独語の"Ich"の方が個が個のままで温存され、自由であるように感じる。

ジェンダーに対する意識が高まっている英語圏ではMrやMrs、Msのかわりとして日本語のSanが注目されているという。

言葉が多いことは必ずしも豊かさに繋がらない。

属性から自由になり、個を尊重するという文脈において、日本語の一人称が多様であることは手放しに礼賛できることではないのかもしれない。



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