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主観と客観 みぎとひがし

僕が「みぎ」を身に着けたのはいつだっただろう。

小学校に入ってからだったような気がする。

母に「お箸を持つ方の手が『みぎ』だよ」と教えられた。

しかし、その説明は私にはピンとこなかった。お箸を持つ方の手はお箸を持ってみないと分からなかったのだ。

「みぎ」は概念だ。

形のない、捕らえどころのない何かだ。

誰も、「ほら、これが『みぎ』だよ」と指差すことはできない。

愛とか勇気とか、形のない何かはたくさんあるけれど、私がはじめて習得したそれは「みぎ」である。

「みぎ」と同時に身に着けた概念に「ひがし」がある。

僕の家からは病院が見えた。その病院のある方向が「ひがし」だった。

「Kくん『ひがし』はどっち?」

僕は病院を指差す。

「じゃあ、『みぎ』は?」

僕は自分の胸の鼓動を確かめてから、それと反対を指差す。


左右と東西南北、これらの概念は方向に対して与えられているという点で、共通している。

しかし、定義のされ方が正反対である。

「みぎ」は一人ひとり違う。

僕の右腕はずっと「みぎ」にある。
君の右腕もずっと「みぎ」にある。

だけど、僕にとって、君の右腕は左にあったり前にあったり、後ろにあったりする。


「ひがし」は誰にとってもひとつだ。

朝、道行く人に「ひがしを教えてください」とたずねたら、全員が太陽の方向を指し示すだろう。

主観と客観。
胸の鼓動と病院。
私とそれ以外。


僕にとっての主観と客観という概念は「みぎ」と「ひがし」から始まったのだ。


主観は、あまりいい意味ではないようだ。

「主観的な意見だね」

「それってあなたの感想ですよね」

これを言われて褒められたと思う人はいないだろう。

でも、そう思うのだからしょうがない、そう感じるのだからしょうがない。 

「みぎ」は僕にとっての主観という概念の原点だ。

だけど、「みぎ」は客観的でもあるかもしれない。

北を向いたときの右は必ず東だ。それは、誰にとってもそうだ。

わたしにとっての「みぎ」とあなたにとっての「みぎ」は違うけれど

わたしにとっての右もあなたにとっての右も「わたしにとっての」、「あなたにとっての」という条件のもとで客観的だ。

「わたしにとっての」「あなたにとっての」ということが客観的に理解されれば、「みぎ」は客観的になる。

でも、そのためには

「わたしは北を向いている、だからわたしの『みぎ』は東なんだ」

「あなたは南を向いている、だからあなたの『みぎ』は西だよ」

と「わたし」や「あなた」を客観の言葉で語る必要がある。

でも、わたしたちはいつも客観的に理解されるような方向を向いてばかりではない。

他の人に馬鹿にされたり、貶されたりするような、客観的に理解されない行動や考え方をしたくなることがある。

そういうときに「みぎ」を覚えたときのことを思い出す。

そして、思い出そうとする。

「ひがし」を覚える前の、僕だけの「みぎ」を。

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