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課題解決ブームの落とし穴②地域課題解決「あるある」ーなぜ「アジアの富裕層向けインバウンドで解決」になるのか。

この数年、「課題解決ブーム」だ。私はいろんなアントレプレナー系のプログラムで審査員をさせていただいているのだけど、「安易に”課題解決”と言ってしまうことで、むしろ解決から遠ざかるんちゃうか…?」と思うことがいくつかあったので、共有させていただきます。
…というシリーズ。

第2回は、地域課題解決「あるある」
(※第1回:PBL(課題解決型学習)/探求学習「あるある」ーなぜ「アフリカの貧困とフードロスをAIマッチングアプリで解決」になるのか

<本文とは関係のないスペインの写真が入ります…今回はテルエル!>


■ 大切なのは「共創」

地域課題解決といって思い出すのは、一昔前、東京のデザイン事務所が地方の農村地域にやってきて、ちゃちゃっとパッケージをデザインしたジャムつくらせてウェブつくったりしていた6次産業化ブーム

地方の農家さんたちは、わざわざ東京から来てくださったお客様を丁寧にもてなして、まじめにアドバイスを聞いて、そんで反対する2代目に対して3代目がこれからの時代こういうのが必要だからさ親父って説得してお金を払ったりもした。
でも特徴のないジャムの販路はそうそう開拓できなくて、継続的な売上が立つことはなく、相談しようにも東京の事務所はもうよその地域に活動を移していて「納品後のことなので」と相手にしてくれず、農家さんの手元に残ったのは賞味期限が切れるジャムと、完成後は誰も手を入れられないパッケージとウェブと、ちょっと借金と、家族の不和…という光景が、日本の田舎のあちこちで見られたのだよ。

もちろんちゃんとされているデザイン事務所もいっぱいある。でもこれで東京やデザイナーやコンサル不信となった農家さんが、地方にいっぱいいるのも事実。だってこれ、農家さんから「よく聞く話」なのだ。

そしていま、東京に限らず都市部の企業や学生が、農村部をはじめ「活性化が必要な地域」に行って「地域課題解決」するブームが来ている。

地域内だけでは解決できないことで「課題」になっているのだから、地域外の知恵や力を合わせて、いわゆる共創によって地域課題解決をしよう…というのは、ぜんぜん間違っていない。問題は、ちゃんと「共創」になっているか、という点だ。


▶ あるある① 行政が課題と解決の方向性を設定している

地域課題として、地元自治体が「日本遺産〇〇の認知度向上」とかを掲げるケースがある。近年日本遺産に認定されたソレはたしかに昔からあるけれど、なんとか認定に滑り込ませるために近隣自治体と一緒に申請したものであり、実情としてはまだ観光地として必要な宿泊や飲食や駐車場などが整備されていない、なんてこともよくある。

その観光地(に、これからしたいところ)の認知度向上が「地域課題」である。…って考えてるのは、行政だけ! というケースも少なくない。その場合、むしろそういう行政の認識こそが地域の最大の課題かもしれない。

大事なのは、地域の内外で共創すること。なのに、解決すべき課題は何かというっ本質から一緒に考えるプロセスをすっ飛ばして、内部の都合にあわせて民間の知恵を「無料で使えるコンサル」的に使おうとする態度では、本当の地域課題解決からますます離れてしまう可能性が高い。


▶あるある② 共創側が地域をリスペクトしていない

「課題地域」のひとたちは、たいてい、気候が厳しかったり交通の便が悪かったり買い物がしづらかったり学校が遠かったり後継者がいなかったり産業が構造的に地盤沈下するなど本当に大変な中で、地道に、日々の営みを積み重ねてきている。見方を変えるなら、「課題地域だけどそこに残り続けて、誰よりまじめに取り組んでいる当事者」なのだ。

そこにフラッと来た若造(←だいたい外から来る方が若い)が、自分の人生経験だけから「やっぱせっかく村に来ても泊るところが古いんで、いまはサウナっすよサウナ」とか、「やっぱソフトクリームにして付加価値を」とか、あるいはそのアイディアも出ない場合は「やっぱPR不足っすね、いまは動画っす」と言ったりするレベルで、「課題解決案」が出てきたりする。

これでは「インチキな東京のデザイン事務所アゲイン」だ。しかも、専門的知見がないだけ、なお悪い

地域にはその地域が大切にしたいことがあり、これまで頑張って取り組んできたこともある。どういう地域になりたいのか、これまでどういうことをされてきたのか、まずは敬意をもってちゃんと知っていく姿勢がないと、課題の本質も課題解決の方向性も、見えてこないんじゃないだろうか。少なくとも「共創」なんて、地域のひとたちが一緒に取り組もうと思ってくれないと実現しない。


▶あるある③ 共創側が「地域の人」になってしまう

共創側の参加者が都市部からの場合、対象地域のフィールドワークを通じて、一発で地域のファンになってしまうことがある。「すごく自然が豊かで!」「特産品の〇〇も本当に美味しくて!」「初めて知ったんですけどあの伝統芸能はかなり歴史があって!」…。

そうなると「この素晴らしさを知ったら、世界中から人が来るはず!」と盛り上がってしまい、自分がそのフィールドワークで体感したことを全部ぶち込んだ「自然が豊かな地区に古民家系の宿泊施設をつくって農産品を収穫体験してから食べて、伝統芸能を担い手のおじいさんの話を聞きながら鑑賞し、夜は星空を堪能する、村まるごとよくばり観光プラン」みたいな提案をしがちだ。

でもたぶん日本の9割以上が自然が豊かで、とれたての農産品はそりゃまあ都会っ子には衝撃の美味しさなのも当然だし、伝統芸能にはもちろんまぁまぁの歴史がある。なのに似た特産品があって温泉もあってここより少し賑わっている隣の町村と比べることすらせず、「もう、わがまち世界一!」になっていたりする。

もちろんファンであることは素晴らしいことだし、「だから移住してゲストハウスしながらまちの新しい特産品開発とPRにつとめました」なら間違いなく最高のストーリーだ。でも、フラッと短期間訪れて課題解決案を出すだけの関係なら、「内部の人」になっては意味がない。あくまでも外部の人として、他の地域との冷徹な比較も含めて「本当の魅力は何か? とすると本当の課題は何か? とすると地域内部を補充する知恵や力は何か?」を見出してこそ、意味がある共創が生まれる。

しかも往々にして、地方の人々の歓待に興奮して「また来ますね!」と言ってフィールドワークの地域を去った都市部の参加者は、二度とそこを訪れることはない(※自戒を込めて)。まぁ自分すら再訪しないようじゃ、地域課題解決なんてできるわけないよね。この、期待だけさせて土地を去るかんじ、「インチキな東京のデザイン事務所アゲイン」だ。


上記①②③がぜんぶ揃うと、「アジアの富裕層向けインバウンドで地域課題まるごと解決」な提案が出てきてしまう。いや、アジアの富裕層のインサイトがわかるならいいよ。でも企画立案者が地域の特産品を使った800円のソフトクリームを高いと買わない金銭感覚なら、かなり難しいのではないのだろうか。…つか、アジアって具体的にどこよ。


■ 「課題解決」の罠

▶簡単に課題解決ができるなんて思わないのが前提

だいたい「課題解決」なんて言うから、「課題はわりと簡単に解決できる」という前提で臨んでしまう。でもね、そもそも専門家でもない私たちに、地域課題を解決する力なんて本当にある? これまではコンサルとかが、チームですんごいお金をかけて様々にリサーチして、他の事例も参考にしたりしながら、提案してきたような事柄である。それでもなかなか解決なんてできない、共通解がないから残ってきたのが、いま目の前にある課題なのだ。

しかも地方課題は、たいてい、複雑で深刻だ。地方の人口減少の背景には、日本全体としての世界初の人口減少だとか、東京一極集中だとか、会社勤務が多い構造とか、もう様々な事情がこんがらがって在る。地方の産業の衰退だって、世界的な産業構造の変化に乗り遅れた日本の施策とかも抜きには語れない。さらにはもちろんその地域ならではの課題も山ほどある。あぁ、なぜ交通の便が悪いかって? 田中角栄がいなかったからだよ! …とかね。

だから諦めよう、というわけではない。
「相当難しい」という相当な覚悟をもって臨んだらいいのだと思う。地域のひとたちと共に、お互いの時間という貴重な命を費やしながら、「いやー、そう簡単に答えが見つかるとは思わないですけど、よかったら一緒に試行錯誤させてもらえますか?」って。



▶「誰かの課題解決」ではなく「自分の妄想実現」

課題解決に限らず、共創が意味をなすのは「メンバーが多様な時」である。逆に、誰もが知っている、あるいは誰もが言いそうなことを言うのなら、その人がチームのメンバーである意味はあまりない。なので、「みんなと同じことを言わないために」リサーチするのはいいし、もちろん前提として地域の課題を知っていくのは地域への敬意として必要だけど、そうじゃないなら、一般論を深掘りしていっても意味がない。

そうではなくて、自分だけの視点を持ち込む。それを聞いた他の人が「あー、そういう考えもあるのか!」と新たな発見をした時に、新結合(イノベーション、とシュンペーター先生がいうやつ)が生まれる。

他のひとがあまり知らない、自分が深い知見を持っている事柄。それはだいたい大きくふたつある。ひとつは「仕事に関して得た知見」、もうひとつは「趣味に関して得た知見」だ。で、こういう場ではついつい「仕事上の知見」を颯爽と開陳しがちなのだけど、本当に価値あるのは「あんまり大声で言うことでもないのだけど、〇〇マニアです」の知見であることが多い(と、私は感じている)。

なんせ、本気だからだ。その本気が、企画から一般論や中途半端さを排除してくれる。

たとえば、とくにアニメに興味がないひとたちが集まって「なんかアニメつくって、聖地巡礼コンテンツつくったらいいんじゃないでしょうか。現在、アニメのマーケット規模は〇億円です」という案を出すのと、「ここは〇〇監督の代表作■■で主人公の少年時代を描いた重要なシーンの舞台として出てくるのですが、なぜなら〇〇監督は幼少期に実際にここで過ごしているんです。別の作品△△には、大学時代を過ごしたこの近くの中核都市が出てきます。そして、社会人になって住んだ街は東京近郊にあって、よく通っていた店にはサインも残っているし、監督がずっと作品の構想を練っていた席もそのままあるんですよ。どうでしょうか、この3拠点を、監督の足跡と味の思い出をたどる旅として…」という吹っ切れた案がいったん出てくるのでは、どちらの方が、最終的にいい提案になりそうだろうか。

バイク乗りにしかバイク乗りのきもちはわからないし、バイク乗りが本当に必要とするものはわからない。アウトドア好きが外に寝たがるきもちは、アウトドア好きにしかわからない。地酒好きのきもちは、地酒好きにしかわからない。「いま流行っているらしい」程度の知識で課題解決の提案をするのは、テレビで野球の試合を見ながら監督の采配にケチをつけるファン以下である。

ドラッカー先生が「顧客を想像してはならない」というように、「アジアの富裕層」とか「なんとなくアニメの聖地巡礼をするSNSインフルエンサー」とか「とくに特徴がないけど割高のジャムをわざわざ通販で買う客」など、都合良く課題解決してくれる顧客を勝手にでっち上げてはいけない。

少なくとも、まずは自分が、何度もそこに行きたくなる観光コンテンツや、割高だし楽天で買えないけどわざわざ注文して必ずリピ買いし続ける商品を、開発しなければならない。

いちばん良いのは、自分がどうしてもどうしてもやりたいこと、この世に存在してほしいものを、実現させてもらえないか、どうやったら実現できるかを、考え抜き、調べ抜くことだと思っている。「誰かの課題解決」ではなく「自分の妄想実現」。そういう熱があるプランは、なぜか人を動かし、結果的に現実を変えていく。だいじょうぶ、誰も取り合わないプランは、実現しないから。


だから私は「課題解決」という言葉を使わないようにした。勘違いしちゃうから。
近年の課題解決ブームで、地方が疲弊しないことを、心より願う。

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