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神と対峙して現実を見る

信濃さん、お元気ですか?
写真は今回の投稿とは全く関係のない、金沢の兼六園です。(ちょっとした旅行に行ったんです。)
こちらはぼちぼちです。健康診断で脂質が多いと言われました。運動や食べ物に気を使いたいものです。

物語と神話の違いは無い

前回いただいた質問に回答しますと、物語と神話の違いは無いというのが私の結論です。
…で、もう少し詳しく説明させてください。
神話は物語の一部だと考えます。親が子供に言って聞かせるお話も、日本書紀も、ギリシア悲劇も、すべて物語。

書き始めた当初は色々自分なりに考えたのですが、入門書を読んでみると私が考えたことがきれいにまとまっていました。ここは松村一男さんの『神話学入門』から神話の仮説的定義を引用します。

(1)神話は物語である
(2)集団や社会によって「真実」を語っているものとして容認されている
(3)作者は重要ではない
(4)年代が不明

松村一男.神話学入門(講談社学術文庫)(p.7).講談社.Kindle版.

古代神話と近代小説の比較

『神話学入門』ではこの定義が本の冒頭で扱われていて、そこから近代神話学が各研究者ごとに紹介されていきます。
信濃さんは「古代の神話と、私たちが普段触れている物語の違いはなんだろうか」とおっしゃっていました。これってつまりは神話と小説の違いだと読み替えられると考えました。そこで以下古代神話と近代小説の違いについて考えてみます。

まず思ったのは、古代の神話と現代の小説を比較することは非常に難しいのではないかということです。
古代人はまさに吟じて物語を楽しんだのでしょうし、(話し言葉と書き言葉でかなり違いはあるかもしれませんが)それ同様に我々現代人も『オデュッセイア』を読むことができます。登場人物の悲哀に共感することも、注を駆使しながらできています。
ですが、上述の定義にはあまり書かれなかったこととして、私個人が気になるのは経済的な社会の違いがあまりにも大きいのではないかということです。神話はより多数の人間の編集や伝言、写本に依存しています。そこにはおそらく資本主義による人間の駆動はありません。また製本の技術も低いものでしょう。その始まりはギリシア神話で言えば歌。古代ギリシアではかなり開かれた物語=神話が語られていた。仲間たちに認められた複数の合唱隊が物語を呼び起こしていた。
それをその後は石に刻んだのかもしれない。エジプト由来のパピルスへ書き写されたのかもしれない。虫食いもあったかもしれない。失われたギリシア神話は膨大だと聞いたことがあります。この膨大に失われ続け、それでもなお残るものは残るという連綿と続く写本プロセス自体が神話の制作段階といって差し支えないはずです。この段階では物語を残すのにごく限られた人々が一眼となって働いていたものの、やはりそのものズバリの著者はいない。
一方現代に移れば移るほど、小説も複数人の手に渡ることもあるでしょうが、ごく少数の人間によって作成されます。資本主義社会において著者はできるだけ多くの人に手に取ってもらおうとするのが多数でしょう。しかも編集者と協議するとはいえ、著作となるまで制作段階において著者の手を全く離れない。近代的な著作活動というのは著者の意思が色濃く残るように設計される傾向がある。

神話の合理性

ここまで書いてみて上記『神話学入門』の引用(3)のことを書いていたようです。神話において作者は重要ではない。この点においては古代の神話と近代小説に隔絶があります。神話が残る理論的な原因はありえないわけです。少なくとも偶然多くの人々の心に残り、「真実」を語っているとされたがゆえに遺された。
作者の点では神話と近代小説とでは隔絶がありますが、「真実」を語ろうとするところに2つの間の架け橋をみることができそうです。西洋古代史・神話研究者の庄子大亮さんは古代ギリシア神話の入門書でこう書いています。「諸現象の原因をなんとか説明しようとして神々を想定したり、様々な神話からより妥当と考えられたものが受け入れられていったりしたことは、ある意味『合理的』でもあり、」結果として古代ギリシアは「『科学』に至る合理的精神を育んだ時代でもある。」(『世界の見方が変わる ギリシア・ローマ神話』p.41)
神の視点からすれば微々たるものであっても科学の有無を考えれば、人間視点において古代と近代以後では説明のつかない部分が大きく異なると言えるはずです。雷は神の鉄槌ではなく電気です。とはいえ一つの構造として捉えるならばいつの時代になっても物語というのは、当たり前な事柄の外側で起こる原因不明な事実について言葉で「なんとか説明」しようと試み続ける人間の営みとして位置づけることができると考えました。

神とどのように対峙するか

神話は神との対峙の物語だ。ギリシア神話を読んでいるとそう思う。他の神話もそうなのかもしれない。人物かと思って読んでいると神だったり、神の言葉を借りて発言したとの文面があったりする。
つまりこれは、人の声を神が借りて、神が人に語りかけているということをあらわさんとしているわけです。
少し言い過ぎかもしれないのですが、こうした態度がこの分断社会に必要なんじゃないかと思うのです。つまり、誰だって、どんな身分でどんな思いを持っている人だって、ある瞬間はそうでなくとも別の瞬間には神の発言をする可能性がある。神話が確実に現実世界で語られた時代があったはずです。そこでどのような効果が社会に、人類にもたらされていたのか?
社会人類学者のフレイザーは原始宗教や神話を研究しつつも、まずは儀礼や慣習に重きを置くことを主張したそうです。ギリシア神話なら歌とあるように、集会の中で何度も歌われるうちに確定していったということを意識する必要があります。またさらに、上記の通り人々の発言が神の発言かどうかが(もちろん物語ですから当時の社会においてもベタにというわけにはいかないでしょうけれども、心の片隅にでも)意識されていた可能性を検討する必要がありそうです。

オデュッセイアの神との対峙

さて、「オデュッセイア」の中である発言が神の発言ではないと否定される印象的なシーンがあります。第十六歌、息子テレマコスとオデュッセウスの再会シーン。テレマコスがオデュッセウスと気づかずに、相手を神と見違える。そこでオデュッセウスが神ではなく父たるオデュッセウスだと返すシーンです。
このシーンは有り体に言って父と子の感動の再会シーンなわけです。ですが、やはりここは登場人物たるオデュッセウスが「神ではない」と否定しているところに注目したいです。明らかにここは神の発言ではないと自分で表明することで感動を引き立てている。オデュッセウスが神ではない発言することで象徴的に神から離れ、子であるテレマコスに顔を見せる。他でもないオデュッセウスの、父自身からの発言であることを強調しているのです。
ここに古代ギリシア人の、神との対峙が一部表れているのではないでしょうか。神とは圧倒的な他者です。日々神との対話を試みようとしていれば、圧倒的な他者ではない身の回りの間近な他者、つまり他人が、神とは違う声、違う意志を持っているように思える。
お互いを信じられないならば、お互いが同じ言葉の通じる人間なのだと理解できないならば、つまり差異がより強調される時代ならば、より強い圧倒的他者=神を、信仰についてを考えることなしに他者と繋がることなど出来るのでしょうか。

暴力は神を見せるのか

言い換えれば、私たちは驚きなしに他なるものへ向き合うことは無い、と言っていいほどに弱き存在ではないでしょうか。これはやはり人間存在を過小評価している考えでしょうか。
ニーチェはこうした人間理解に対して弱者の論理だと否定しそうです。つまり人間を低く見積もっていると。ありもしない最高善を想定して人間を過小評価することでコントロールしようとしていると。
しかしだとすれば、より妥当な人間の評価とは何なのでしょうか。明らかに持てる力がそれぞれで違うなかで、我々は言論なしの物理的な力の行使によって悲劇を繰り返さなければ正当な社会運営を行うことはできないのでしょうか。
もしかしたら問題の設定について考える必要があるのかもしれません。力が神を見せるのではなく、神が力を見せるはずです。悲劇が繰り返されたのちに正当な社会運営があるわけではなく、悲劇は単純に繰り返されるし、それとは単に別個に正当な社会運営があるはずです。

オデュッセイアの死闘

ただしそうした理性に基づく社会運営とオデュッセイアの世界は全く正反対です。オデュッセイアは明らかに不正はびこる古代において、主人公の荒くれ者オデュッセウスが家族を守るべく冒険し、最後は死闘を繰り広げる物語です。
やはり現代とは暴力への向き合い方が根本的に異なっているように思います。私たち人間は現代から考える以上に暴力的だし、普通に人が人を殺すのです。殺し合いの時代は今まで紀元前から連綿と続いてきました。ちょっとそうした時間が無くなったかのように近視眼的には見えましたし、今も自分たちの身の回りには引き続けるための努力が必要ではあります。とはいえ我々はやはり動物で、できることはすべてやろうとする傾向がある。死闘だってもってのほかです。殺し合いを想像することなら多くの人がやっていることでしょう。
神はどこにおられるのか。殺し合いをしている時に、どちらの側についていらっしゃるのか。誰が神を体現しているのか。今見ている人は神々しいとおもえるけれども、実際にはその残り香で、すでに神は去った後なのか。
こうした態度が物語に書かれていたのではないかとメモしておいて、今回は投稿を締めます。また。

追伸:ニーチェがドイツアゲなのをサクッと調べてみたところ、自由を無邪気に称揚するフランスへの対抗心もあったようです。物事というのはそこまで単純ではないようですね。

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