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言葉をもたない”つらさ”というもの

言葉とは一体なんなんだろうか。ここ数年よく考える。私の中ではそれは意思を伝えるためのツールなのだ、という理解だが、どうもそれだけでは済まなさそうに思う。人間は言葉を使うが、言葉は人間をつくりもする。


私は外国語学習なんてものとはからっきし縁のない、”中学校で不思議の国のアリスのReadingをし”、”ケンは柔道部に入っていますを暗唱した”類の人間である。

当時の英語学習は(今もかもしれないけれど)、とても実践的とは言えず、私自身「英語なら多少話せます」なんて思わないまま、人生20年以上を過ごしていた。

そんな私だが、30代が見えだしたころから外国語学習をはじめ、はや5年になる。最近では第4言語の勉強も始めたってんだから、人生はなかなかわからないものである。

ある日突然言葉が奪われる

母国語以外を話す異国で暮らすということは、ある日突然あなたの全てのボキャブラリーを奪われるということだ。もちろん、自分の意思でその土地に住んでいるのだから”奪われる”なんて受動的な言い回しは適応しないことはわかっている。でも、今まで人生数十年かけて培ってきたあなたの”言葉”は、なかったことになる。それは単に、意思疎通がうまく取れないというだけではない。

もちろん言語力の問題でもあるけど、他言語を話しているときの自分は”母国語を話す自分”とは違うようにも思う。よくも悪くも、言葉っていうのは相当に内面まで影響する。

言葉を持たないひとたちの、”ことば”

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これは、言語的なコミュニケーションを行わない、もしくは後天的に行えなくなった人たちにも同じようなことが言えるのではないかと思う。

・脳神経疾患などで失語症を発症したひと
・先天性の聴覚障害で口語を母語としないひと
・重度の知的及び身体障害で言葉でコミュニケーションをとることが難しいひと

もちろん私の状況が彼らと同じとは言わないが、異言語でのコミュニケーションを強いられる環境にいて、彼らの状況を慮ることは多少出来るのではないかと思う。

あの、透明人間みたいになる感じを。

”ことば”をもつことは、私になること。

重度の脳性麻痺をもつ人たちは、言語を介してコミュニケーションをとることは少ない。では、彼らの”ことば”はどこにあるのか。
私は日本人同士であれば”母国語”を使って言葉を話すことが出来る。手話を利用できる人もそうだ。では、彼らには帰る場所はあるのだろうか。

重度脳性麻痺により言語によるコミュニケーションが出来ないものの、筆談を用いて詩を書いている女性をひとり紹介したい。

彼女は中学生のとき筆談と出会い、その後作詩活動を始めた(ちなみに動画タイトルの「脳性まひとたたかう」という表現は私はめちゃくちゃ嫌いである。余談ですが)。

彼女は言葉を持つことが出来た。そしてそのことをこう綴っている。

しをかくことはわたしじしんを
かいほうするこういだった (さくらのこえ より)

自分の意思を理解してもらえないストレスから、体を壊してしまう重度障害者もいると聞いたことがある。彼らのうちおそらく多くの割合で、言葉が持てる可能性があるのに、その機会を与えられなかったというケースが見られるのではないかと思う。正確な証明は出来ないが、そんな風に感じる。

言葉というのは、筆談や手話だけではない。きっと視線によるコミュニケーションや今後は脳波によるやりとりも生まれてくるだろう。

言葉は自分の意思を伝えるためのツールである。そして、自分の意思を自分のなかで作り上げるものでもある。

ことばを持つことは、人間一人ひとりの当たり前の権利なのではないだろうか。


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