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外出規制から考える「大切なしごと」と「自立」

先日より、イギリス全土で外出禁止令が課された。

食料品の購入や1日1度の運動などで外出することは許されているが、飲食店は彼らが愛してやまないパブは閉まっているし、3人以上での集会は禁止されているし、そもそも必要最低限以外のお店は閉店しているので行く場所がない。通勤も基本的には必要性に駆られていない限りは在宅で。という方針が示されているので街中はガランとしている。

私はというと、留学中の大学は3月中旬にさっさとオンライン授業に全面切り替えをした。国の方針を待たずのこの決断は適切だったと感じる。とても素早い対応だった。といっても現在はそもそも予定されていたイースター休暇に入っているため遠隔の授業すらない。簡単にいうと完全なる引きこもりだ。

#stayathome
#socialdistance
こんなタグが世界各国にて合言葉のように使われている。つまり感染予防のために家にいろ、家にいようということだ。

家にいるだけで世界が救える、そんな風に非常にポジティブなイメージをもってニュースやソーシャルメディアに溢れている。

世界中の有名ブランドがロゴにsocial distanceを取り入れて話題になっている。(↑はフォルクスワーゲン)


Stay at Homeは誰に守られているのか

わたしは今、必要最低限の食料品の買い物でのみ社会と物理的接点をもつという生活を送っている。そうした生活に慣れてくると、他人と接触するということの意味は大きく変わってくる。狭い店内で見知らぬ人とすれ違うことが恐ろしく感じたりする(相手の感染のみを疑っているわけではない)。

そのような中で、引き続き仕事をしている人たちがいる。私たちのいわば犠牲になって、自身の、または大切な家族の命をリスクにさらしながら社会を支えるために働いている人たちがいる。

学校の先生たちはもっと尊敬されるべきだと思う

先日クラスメイトがそんなことを言っているのを聞き、はっとした。イギリスではケアワーカーや医療職などの重要かつ休むことの出来ない仕事をしている親の子どもは学校に通い続けることが出来る。他の家族の子と異なり、外出をし働き続けている親の子どもは、相対的にリスクも高いといえるだろう。そういった子どもたちのため、教師たちは現場に出続けている。

私たちマジョリティがStay at Homeを行うために、犠牲になっている人がいる。スーパーの店員さん。普段は東欧の移民だとさげすまれることもある。そんな彼らが、私たちの生活を守っている。決して高いとは言えない給料で、命をかけて社会を守っている。


コロナとの共生で考える、自立と特権の意味

自立の意味を考えてみる。自立を

身の回りのタスク、社会的・経済的・政治的な活動を全て自分自身の力で行えること

と定義してみる。今のこの状況は、果たして自立しているといえるのだろうか。私自身は、ちっとも自立していると感じない。自分のリスクを最低限下げ、労働賃金の低い誰かにその危険性を押し付けているような気がしてならない。だけど、それが今の私に求められていることでもある。自立とは、いったい何なのだろう。
助け合い、支え合う。その行動を自身で決定するということを自立とするならば、我々は相互に依存しつつ自立しているといえるのかもしれない。都合が良いかな。

上のTweetにもあるように、このような隔離生活が可能なのは、社会的に、経済的に、衛生的に我々がPriviledgeであるからだ。つまり、すでに誰かや何かに対して特権を有してる階級であるということ。

日雇いで、今日仕事をしなければもう食べていくものがない。そうなったときに本当に外出を控えられるだろうか。誰かの命を守れなんて、言われて行動を変えられるだろうか。遠隔で仕事をしないなんてバカだなんて、どうやって笑うことが出来るだろう。

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