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コロナと優生思想。今までとこれから。

イギリスではロックダウンが少しずつ緩和され、ようやく友人と(社会的距離を保ちながらではあるが)顔を見て会話が許されるようになった。もしかしたらこれは第2波がくるまでのほんの休息かもしれないが、日本でも少し気持ちが落ち着いている頃ではないだろうか。

そんな今だからこそ、落ち着いて考えたいことがある。

コロナは優生主義を呼び起こしたか?

①命の選別

上のリンクにあるように、国連がコロナの各国のコロナ治療基準が「障害者や高齢者を差別しているのではないか」と指摘している。

簡単にいえば、より健康でより長い期間生きられる患者を優先して治療すべき(そうでなければ治療が遅れても仕方がない)という考えへの批判である。

これは、ある面から考えれば非常に合理的な考え方かもしれない。では、それはどのような面なのだろうか、ということを考えたい。もしかしたら、健康でより長く働けることが優先される理由のひとつではないだろうか。資本主義的な価値観で人間の命に重みづけをしていないだろうか。

ちなみに私はこの課題へ答えをもっていない。救急医療の現場ではトリアージを行って限られたリソースを適切に割り振ることが非常で、そして医師が命がけで行っている尊敬すべき作業である。もし次また医療崩壊するようなことになれば、トリアージは必須だろう。だが、問題は「障害者だから、高齢者だから、助けられなくても仕方ないよね」というのが一般的なアイデアにならないかどうかということだ。もしあなたがこの考えに少しひっかかることがあれば、何故そう思うのか思いをはせてほしい。

②集団免疫の犠牲者

イギリスが当初方針として打ち出した(そして数日で取り下げられた)集団免疫方式。簡単に言えばみんなでかかって免疫つけようよ!というアプローチ。これは全員に画一に感染のリスクがあるように見えるが、実際には身体的、もしくは免疫機能が脆弱なグループに圧倒的に不利に働く。

最初イギリスが集団免疫を狙う、といった際には私も「それはいい方法なのではないか」と感じた。自分はかかってもおそらく問題ないからだ。脆弱なグループに属する人たちへの考えがまったく及んでいなかった。恥ずかしい話である。

このアプローチは、「(多数の)健康なやつが生き残れば良い」というものだ。経済的リスクと、免疫的弱者の命を天秤にかけている。それでも、経済は回るしその方がいいだろうという思想が根本にあるのではないかと問いたい。

実際に、スウェーデンで障害者がどれくらいなくなったのかということはわからないが、高齢者が多くなくなっている。これは結果論なので後から責めることは出来ない。が、ここから学ぶことは出来るだろう。リスクは、誰にも平等ではない、ということを。

③新しい生活様式、は誰のため

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これは、”コロナと共存するため”に示された新しい生活様式だ。このイラストを見るとわかるが、まぁ障害者はどうしたら良いか?は提示されていない。マスクをつけると会話が難しい聴覚障害者、適切な機器や介助がないと運動が難しい身体障害者、介助者付き添いのもとでないと外出が難しい人もいる。

もちろん在宅勤務等が普及することで助かる部分もある。だが、この新しい方針は障害者やマイノリティに配慮してつくられているだろうか?彼らの意見は少しでも取り入れられただろうか?というと、「こんな時なんだから仕方ない」「緊急事態なんだから我慢するべき」という声が聞こえてきそうだ。実際大学院の授業の中でこのような指摘を聞いたとき、私も思った。でも、こんなとき、こんなこと、そんな場面の繰り返しで差別は今も健在なのである。差別がなくなるべき時、というのは待っていてもこないのだ。

まとめ

優生思想は私たちの根本的な考えに浸透している。それがこのコロナのパンデミックによって表面化しただけだ。いったん表面化したこの思想が、これからどう変わっていくのか。第2波が来るまえに、あなたの中の考えを少しだけ見つめてみてほしい。

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