前鋸筋(ぜんきょきん)の解剖学的特徴

前鋸筋を知っていますか?

前鋸筋という筋肉をご存知でしょうか?

前鋸筋(ぜんきょきん、Serratus Anterior)は、肩甲骨の安定性と運動において極めて重要な役割を果たす筋肉です。

肩の動きや姿勢に深く関与し、多くのスポーツや日常生活の動作において重要です。

今回は、前鋸筋の解剖学的構造、隣接する解剖学的構造との関係、発生学的起源、血液供給、神経支配、機能、および臨床的意義について深く掘り下げて解説します。

前鋸筋の解剖学的構造

前鋸筋は、胸郭の外側面に位置し、第1から第8あるいは第9肋骨の外側表面から起始し、肩甲骨の内側縁に付着します。具体的には、以下の3つの部分に分かれます:

  1. 上部(Superior Part):第1から第2肋骨および肋軟骨の外側面から起始し、肩甲骨の上角(superior angle)に付着します。この部分は、肩甲骨の上部を引き上げる作用があります。

  2. 中部(Intermediate Part):第3から第4肋骨および肋軟骨の外側面から起始し、肩甲骨の内側縁の中央部に付着します。この部分は、肩甲骨を前方および外側に引き寄せる作用があります。

  3. 下部(Inferior Part):第5から第8肋骨および肋軟骨の外側面から起始し、肩甲骨の下角(inferior angle)に付着します。この部分は、肩甲骨を外側および上方に回旋させる作用があります。

前鋸筋は、他の筋肉と異なり、その長い起始点と付着点のために「鋸状」の形態を呈しており、この特徴から「前鋸筋」と名付けられています。


隣接する解剖学的構造との関係

前鋸筋は、肩甲骨の内側縁と胸壁の間に位置しており、その位置関係から肩甲骨の動きに大きく影響します。具体的には、以下の解剖学的構造と密接に関係しています:

  1. 胸壁(Thoracic Wall):前鋸筋は胸壁に沿って走行し、肋骨の外側面に密着しています。このため、呼吸運動においても重要な役割を果たします。

  2. 肩甲骨(Scapula):前鋸筋は肩甲骨の内側縁に付着し、肩甲骨の安定化と運動に寄与します。特に、腕を挙上する動作において、肩甲骨を前方および上方に回旋させることで、肩関節の可動域を広げます。

  3. 大胸筋(Pectoralis Major)および小胸筋(Pectoralis Minor):前鋸筋はこれらの筋肉とともに、肩関節の動きに関与します。特に、小胸筋との協調によって肩甲骨を安定化させます。

  4. 菱形筋(Rhomboid Muscles):菱形筋は肩甲骨を内側に引き寄せる作用があり、前鋸筋と拮抗的な関係にあります。これにより、肩甲骨の位置を適切に保つことができます。

発生学的起源

前鋸筋の発生学的起源は、第6および第7胚節(somite)に由来します。胚発生の過程で、これらの胚節から分化した筋芽細胞(myoblast)が移動し、最終的に胸壁と肩甲骨に付着する形で前鋸筋を形成します。この発生過程において、長胸神経も同時に発生し、前鋸筋を支配する形で成長します。

血液供給

前鋸筋への血液供給は、以下の動脈によって行われます:

  1. 外側胸動脈(Lateral Thoracic Artery):この動脈は腋窩動脈(Axillary Artery)から分岐し、前鋸筋の上部および中部に血液を供給します。

  2. 胸背動脈(Thoracodorsal Artery):この動脈は肩甲下動脈(Subscapular Artery)の枝であり、前鋸筋の下部に血液を供給します。

これらの動脈による十分な血液供給により、前鋸筋はその機能を十分に発揮することができます。

神経支配

前鋸筋は長胸神経(C5, C6, C7)によって支配されています。長胸神経は頸神経叢(Brachial Plexus)の枝であり、前鋸筋の深部を走行しながら筋肉に到達します。この神経が損傷すると、前鋸筋の機能が低下し、「肩甲骨の浮き」(Scapular Winging)と呼ばれる状態になります。これは、肩甲骨が胸壁から浮き上がることで、肩関節の動きが制限される状態です。

前鋸筋の機能

前鋸筋の主な機能は以下の通りです:

  1. 肩甲骨の前方回旋: 前鋸筋は肩甲骨を外転させ、前方に引き寄せることで肩の可動域を広げます。これは腕を上げる動作(例えば、頭上に物を持ち上げる動作)において非常に重要です。特に、前鋸筋の下部は肩甲骨の下角を外側および上方に引き上げる役割を果たし、肩関節の完全な挙上を可能にします。

  2. 肩甲骨の安定化: 前鋸筋は肩甲骨を胸壁に固定する役割を果たし、肩関節の安定性を保ちます。この機能は特にプッシュアップやプランクなどの体重を支える動作で重要です。前鋸筋が肩甲骨を安定させることで、肩関節周囲の筋肉が効率的に動作し、力を発揮することができます。

  3. 呼吸補助筋: 前鋸筋は呼吸時に肋骨を引き上げ、胸郭を広げることで深呼吸を助けます。特に、強制呼気時には前鋸筋が肋骨を引き下げ、呼吸の効率を高める役割を果たします。

臨床的意義

前鋸筋は、その重要性から、損傷や機能不全が発生すると多くの問題を引き起こす可能性があります。以下に、前鋸筋に関連する一般的な障害とその対処法について説明します:

  1. 肩甲骨の浮き(Scapular Winging): 長胸神経の損傷により、前鋸筋が弱化し、肩甲骨が胸壁から浮き上がる状態です。この状態は肩の動きを制限し、肩関節周囲の痛みを引き起こします。リハビリテーションとしては、筋力強化運動や神経再生を促進するエクササイズが推奨されます。

  2. 筋力低下: 前鋸筋の筋力が低下すると、肩の動きが不安定になり、他の筋肉に過負荷がかかることがあります。特に、肩甲骨を安定させる筋肉が代償的に働くため、肩周囲の筋肉に痛みや炎症が生じることがあります。筋力強化トレーニングを通じて前鋸筋の強化を図ることが重要です。

  3. 筋膜炎や筋緊張: 長時間の同じ姿勢や過度の使用により、前鋸筋に筋膜炎や筋緊張が生じることがあります。ストレッチングやマッサージ、適切な休息を取ることが効果的です。

前鋸筋を強化するエクササイズ

前鋸筋を強化するためのエクササイズには以下のようなものがあります:

  1. プッシュアップ プラス: 通常のプッシュアップの動作に加えて、腕を伸ばした状態でさらに肩甲骨を外転させる動作を加えるエクササイズです。これにより、前鋸筋の強化が図れます。

  2. ウォールスライド: 壁に向かって立ち、肘を90度に曲げて手を壁に当てます。そのまま手を壁に沿って滑らせ、肩甲骨を上方回旋させる動作です。前鋸筋の動きと肩甲骨の協調性を高める効果があります。

  3. バンド・プルアパート: 抵抗バンドを使用して、両手でバンドを引っ張り、肩甲骨を引き寄せる動作です。前鋸筋を含む肩周囲の筋肉を強化する効果があります。

  4. ダイナミックハグ: 肩甲骨を外転させる動作です。手を前で合わせ、肩甲骨を前方に押し出すようにしてハグするような動作を行います。これにより、前鋸筋の可動域と強度が向上します。

まとめ

前鋸筋は肩甲骨の安定性と肩の運動において非常に重要な筋肉です。その解剖学的構造と機能を理解することで、適切なトレーニングやリハビリテーションを行うことができます。前鋸筋の障害や機能不全が発生した場合、早期の対応と適切なリハビリテーションが重要です。特に、肩甲骨の浮きや筋力低下が見られる場合、専門的な評価と治療が必要です。今回のコラムが、前鋸筋についての理解を深める一助となれば幸いです。

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