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「性」と「生」の交差する物語にdiveして…。/『くちびるリビドー』創作こぼれ話〈2〉

前回も書いたとおり、私が「物語=小説」を書くようになったきっかけは『女による女のためのR-18文学賞』だった。

初めて作品を創作→応募したのが2010年。その後、東日本大震災があり、私は仕事を辞め、なのに結局また短期のバイトをするようになり、それから祖母が亡くなったり、移住に失敗したり……といろんなことがあって(しかし現実的に移動することは叶わず、今もまだ同じ場所に住んでいる。←ぞっとするね〜)、また書くようになったのは2014年。しかし今度は母が入院して……と、そんなぐでんぐでんに捻れたような時間の先で生まれたのがこの『くちびるリビドー』という作品だった。



日記&創作ノートによると、思い立ったのは2015年8月21日(金)。

じわじわと雨。限界までうだうだし、ササッと掃除して、今日は急にまた “R-18文学賞、書けるんじゃないか” って気になって、母乳の話を書きはじめる。


最初は短い話だった。「400字詰め原稿用紙換算で30~50枚まで」という規定に合わせ、書いて書いて書きまくったら少しオーバーして、枚数ギリギリに仕上げて応募した(それが現在の作品の第1部のほとんどと、第2部の冒頭少しって感じ)。

そのときにはもう「女性が書く、性をテーマにした小説」という応募規定ではなかったのだけれど、私にとっての『R-18文学賞』はいつだって『性と生の物語』であったし、読者としても、自分で書くにしても、それ以外には……興味を持てなかった、意味を感じられなかった、趣味じゃなかった。だから……。


テーマは最初から決まっていた。「セックス」と「母乳」――そしてタイトルは『くちびるリビドー』

 生まれたての赤ちゃんに、言葉で思いを伝えることはできない。
 それでも生きるため、本能から泣き声を上げる。
 そのとき彼らは、母なるものが乳をさし出すことを信じているのだろうか。必死に吸いついた乳首からおっぱいが出ないとき、彼らは死を意識するだろうか。そこに絶望はあるのだろうか。
「あげたかったけど、おっぱい出なかったんだもん」でも「粉ミルクだったけど、たっぷり愛情そそいで育てたのよ」でも、そこに愛と呼べるものが確かにあったから、こうして生かされ育ってきたのだ。そのことは、もちろん頭ではしっかりと理解している。

 そう、頭では。

 でも心が叫ぶのだ。「わかってるけど、感じられない!」と。


例えばこんな話↑を、私は書きたいと思った。
「母乳神話論(だっけ?)」を語りたいわけでも、多くの「母親」なる生き物を敵に回したいわけでも、もちろんない。あくまでひとりの「内なる子ども」としての声を、掬い上げたかった(それは誰の心の中にも存在するものだろう? だからこれは「ケース1:この主人公の場合」であり、誰かのことを責めるための物語では決してない。……って、こういう説明は超絶“野暮”だよね)。

そしてそれは、こんな話↓に結び付いていく。

 恒士朗が私を好きだということは、頭ではわかっている。
 大切にされていると心から思う。
 だけど、彼と抱き合っても「愛されている」という実感がまるで湧かないのだ。それどころか「この人は本当は私に何の興味もないのだな」という感触ばかりが強まる。


※ちなみにこれらの文章は、『くちびるリビドー』第4話/1.もしも求めることなく与えられたなら(4)に載っています☺︎/*




「性」と「生」。

そして、「心」と「体」。


シンプルに、ダイレクトに、告白するなら……

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“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆