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そのとき「なにか」が変わった~花譜1st ONE-MAN LIVE「不可解」~

そのとき、歴史が動いた

2019年はVsingerの時代だ

そんな風にずっと言われてきた。

バーチャルの可能性

こんな言葉もこの界隈じゃ良く飛び交った。

8月1日、そんな言葉は過去になった。花譜1st ONE-MAN LIVE「不可解」はまさに、過去を食らいつくした。僕たちは今日、一つの未来を見た。Vtuberの可能性が「可能」になった瞬間だった。

Vtuber文化自体が不可解前と不可解以後に分かれる。これはもう断言できる。不可解はそれくらい衝撃的で圧倒的なライブだった。

バーチャルYoutuberの可能性

バーチャルYoutuberの特徴とは何だろう?

アニメでもなく、リアルでもない。

作品としてのバーチャルYoutuberの特徴は嘘と現実が融合した、全く新しい創作の場を提供したことだろう。

不可解はそれを可能にした。不可解が成功した要因はバーチャルとリアルの融合だ。クリエイターが全力で僕たちをぶん殴ってきた。

花譜は正真正銘15歳の等身大の女の子だ。

ライブでのトークのたどたどしさも、未確認進行形のかわいい仕草も、まさにそこには等身大の少女がいて、圧倒的なリアリティがある。

さらに、他のVtuberと違う特徴は、花譜を支える多くのクリエイターが存在していることを公表していることだろう。今回の不可解はいつも花譜を支えるPALOW(パロウ)さん、川サキさん、カンザキイオリさん以外にも、生演奏をしてくれた方々、映像演出をしてくれた方々、公式ファンアートを描いてくれた方々……

エンドロールを見れば分かるように多くの人々が花譜を作っている。つまり、花譜は多くのクリエイターの魂が込められた「作品」であり、花譜を構成するのは少女だけではない。

それは、不可解の演出にも見て取れる

不可解の特徴はバックスクリーンに背景を映し出し、真ん中のスクリーンに花譜とバンド隊が連ねる。そして、前面スクリーンに歌詞をもじったアニメーションが映し出される。この三層構造によって、まるで花譜ちゃんがそこに存在するようなAR的な演出を行っている。

そして、前面スクリーンの歌詞アニメーションは圧倒的なクオリティだった。つい、花譜ちゃん自身よりも目がいっていた人も多いだろう。

いや、それでいいのだ。花譜はアーティストなのだから、花譜自身が彼女の歌にとって、一種の装置である。クリエイターが作った歌詞アニメーションは花譜の歌の魅力を最大限に引き出す。ならば、そこに目を向けることは間違いではないのだ。これはライブではない。多くのクリエイターが紡ぎだした一つの「花譜という作品」だった。

だからこそ、花譜は一人の少女でいられるのだろう。少女が持つ唯一無二の歌声にかわいい花譜というアバターを着せ、少しネガティブでセンチメンタルな歌を歌う……これこそが花譜である。

その点でアバターとしてのVtuberと一線を画している。花譜のリアリティはそこにある。

一方で、バーチャルを生かしたところは、まさに御伽噺だろう。アンコール後、花譜は唐突に御伽噺を始めた。それは、花譜というキャラクターの話だ。らぷらすと共にいる花譜の方だ。御伽噺は花譜の背景ストーリーを考えさせられるだけでなく、「だいっきらい」が代表するように僕たち共犯者自身も組み込まれた物語である。その物語の延長線上に僕たち共犯者がいるのだ。

セトリから描かれる雛鳥から星鴉への成長や花譜がらぷらすに食われ衣装が変わる演出もバーチャルならではの特徴だ。リアルならば、ついチープに見えてしまうこれらの事象もバーチャルであることですっと受け入れることができる。一つの物語として見ることができる。

このようなバーチャル要素を基軸として作られたのがストーリー上の花譜だと考えられる。

リアルから見れば、天才的な15歳の少女と多数のクリエイターによって作られたのが花譜である。一方でバーチャルからみれば、雛鳥から成長して星烏へと成長したのが花譜だ。

それを15歳の少女の成長というファクターを通して融合させている。

こんなの花譜しかできない。まさに、不可解

不可解の演出

不可解はその集大成を見せられた。クリエーターの魂を見た。
作品としての花譜を表現するために、vtuberライブでは珍しい生バンドによる演奏、多重ディスプレイ、キネマティックタイポグラフィ(文字アニメーション)、インタラクションレーザー、スモーク......
今出来ることのその全てが込められていた。

もう誤魔化せなくなった。バーチャルはここまで出来るんだって示された。
vtuber界隈は新しい界隈だから、優しい世界だからとそんな言葉でずっと言い訳し続けてきた。僕たちもこんなもんかと納得してきた。

vtuberもプロだ。ストリートじゃないんだ。トークして、歌うだけ?そんな時代は終わった。

不可解はバーチャルの可能性を示した。もう戻れない。

「なにか」が変わる

不可解は共犯者の心に「なにか」を残した。「なにか」が何であったかは分からない。まさに「不可解」としか言いようがない。「すごい」とか「かわいい」とかそんな言葉はとても陳腐に思えて、ただ永遠と形容できない「なにか」という心地よい余韻だけが残る。この「なにか」とは何だろう?

イノナカミュージックのマネージャーでもあるツラニミズさんは不可解を「現場、映像問わずステージに音楽の神様が降りてきているとしか形容できない状況」と表現した。

僕もそう思う。まさにあのライブハウスには音楽の神様が下りてきていた。天才的な歌声を持つ花譜ちゃんを筆頭に、音楽の神様に憑りつかれた天才的なクリエイターが全力でぶん殴ってきた。

僕は思う。「なにか」とはクリエイターに殴られた後遺症なのだ。クリエイターによって生まれた、音楽の神様から与えられた衝撃なのだ。例えるなら花譜病。

ぶん殴られた僕たちも、Vtuberに関わるクリエイターも「なにか」を変えなきゃいけない、そんな焦燥感にかられる病気だ。僕が今書いている文章もそうだ。この感動をなんとか翻訳してみんなに届けなければいけない。そんな義理はないのにそう駆られている。

八月一日、僕たちは病気にかけられてしまった。世界を一歩進める病気に。「なにか」が変わる。そんな気がする。

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