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書くなら捨てる

超有名作家であるところのEさんのエッセイが家の本棚にあったので読んでみたら、絶句するほど面白くありませんでした。
そんな文章を読んだところで時間の無駄と考えているので3ページで止めたのですが、その旨父親にこぼしたところ、
「エッセイは捨て身でないと面白くない」
とのコメントを頂きました。
曰く、
「気取った頭だけのエッセイなんて面白くも何ともない。私生活も全て曝け出せる捨て身の覚悟がないとエッセイなんて書けないのだ」
と。


その時は父親のコメントも、ふんふんなるほどね、くらいにしか思わなかったのですが、私の中に居座り続けてじわじわ何かを広げていて、ちょっとした答えが見つかりそうです。


最近、「好きな文章を書く人」が減っていっています。
すごく悲しくて、やり切れない気持ちになってしまうのですが、「好きな文章を書く人」の文章が『すごく好き』から『あんまり好きじゃないかも』になってきて、「好きな文章を書いていた人」になっていってしまう。何だかそんなことが多いんです。しかも楽しみにしているネット上の人に。


ずっとずっと好きだったHさんも、何だか最近の文章は面白くない。
読むたびに笑い転げていたMさんのブログも、最近は全然笑えない。
楽しみにしていたTさんのエッセイ漫画も、最近は違和感を覚えるようになってしまって読むのを避けてしまう。


……あぁ、この人たち、皆面白い文章に人気が出て、人気者になって、私も一緒に喜びました。当たるべき場所にスポットが当たったと。
それなのに、スポットが当たった後では、注目されたあとでは、捨て身の文章がないのです。批判を避ける微妙な言い方やワンクッション置く言い方。違ったじゃないですか、そう言いたくなります。
もし「好きな文章を書いていた人」に会ってしまったら、言ってしまいそうです。
昔の、はっきりした言い切りの文章や小気味の良いぶった切り方や、自分本位な感じが好きでした。と。


まぁ、今の文章が好きか昔の文章が好きかだなんて、単なる私のわがままでしかありません。
でも、それでも、やっぱり捨て身かどうかはエッセイを書く上では欠かせないものなのではないかと思います。捨てて捨てて、それでも晒せる人の文章が、読みたい。そして、捨てながら書いてみたい。
そんなことをネットの文章の中で思う冬です。



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