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「承認欲求」を乗り越えようとして、抗った日々を振り返る。

今から6年ほど前、

10代後半の大学生だった私は、

ツイッターをよく見ていた。

バンドサークルの仲間同士の馴れ合いや、
内輪でしか通じないネタのやり取り、
ライブで活躍していた仲間を写真と共に挙げて
褒め称える投稿、
それをリツイートする本人、、、

そんな「いかにも大学生」な日々とSNSを、
当時は結構楽しんでいた。


ある日を境に、それらが全て嫌いになった。

よくある内輪の誰かを標的にした、
SNS内での陰湿な虐めの標的にされたからか。

サークル内恋愛に現を抜かしては、
数月後には浮気だの不誠実だのと
互いの悪口を言い合う知り合い達を
見るのが辛くなってしまったからか。

それらに首を突っ込み、
ヤジを飛ばす周りの姿がもっと嫌になったからか。

それらが理由の一端を握っていた気もするが、
それらが全てかと言えば、
なんとなく違う気もしていた。

一番はおそらく、
「いいね」を目的とした投稿をする自分が、
心底醜く思えてしまったから
だったと、今なら思う。


それからは、承認欲求との戦いの日々だった。

「いいね」が沢山つきそうな“映える“観光地には敢えていかず、
地元民も寄らなそうな獣道をひたすら進んでみたり。

流行りのアニメや漫画は敢えて読まずに、
話題にもあがりにくそうなサブカルチャーネタばかりを
追い求めて、
「ごめん、流行りのものはあまり知らなくて…」と
済ました顔で言ってみたり、

「わかる人にわかってもらえれば良いんだ」と嘯きながら、
その実いつかは大勢に届いてほしい、、、などと身勝手なことを宣う、

「承認欲求を捨てたと見せかけて、
抑え付けた欲望がこじれただけの、
ただただ痛いヤツ」

に成り下がっていた。


唐突だが、
就職して上京して、
「メイク」が趣味になった。

ずっと「男子」として学び、
「男性」として社会を生き、
「雄」としてのセックスをしてきた
己のアイデンティティを飛び越えて、
新たな自分を見出したい欲に駆られた。

プロに教わりながら、
ベースの塗り方、
アイシャドウの引き方、
ラメの載せ方、
リップの施し方を少しずつ学び、

新しい姿の自分を探している。

そして、時にその姿を、
誰かに見てほしいと思う様になった。

しかし、そんな自分がやっぱり許せなくて、
欲求に蓋をして燻る私を
辞めることができない儘でいた。


先日、女装した男性が集う即売会に行った。
興味はあったが一人では心細いので、女友達に同行をお願いした。

普段は社会人の一員として、「男性」として仕事をしていそうな
30代~60代の生物学上♂の人達が、

ウィッグを被り、
コスプレをして、
自分たちの露出度高めの写真集や
絡みの入ったDVDを制作・販売していた。

そこはまさに、「未知の世界」だった。

そんな世界を目の当たりにして唖然とした私を横目に、
自他とも認める【オタク】な彼女は終始興奮していた。

「コスプレが素敵!」
「とっっても美人ですね!」
「私もいっそ男性の体で生まれたかったです!」

と、
ブースの人たちに積極的に声かけし、
心からその雰囲気を楽しんでいた。

帰り際、
「いい買い物をした」と
体重が3桁はありそうな女装子さんの写真集を
大事そうに掲げて隣を歩く、
ご機嫌な彼女に思い切って聞いてみた。

「なんかあの人たち、【承認欲求】強めな雰囲気だったね、、、」
本心から思ったことと、私がそうできない嫉妬の心を混ぜてそう言った。

すると、

「あの人たちはね、「可愛いと言ってほしい欲」が
自分達の中にあることを全面的に受け入れて、

なによりそれを恥じることなく自分たちの好きな自分を出していた。

それが本当の意味での自己表現であり、【美しさ】の正体だと思うよ。

その点、中途半端にメイクして可愛くなったつもりでいて、

自分からは言い出さず、

あわよくば"可愛い"と言われることを期待しているのが見え透いた

受動的なあんたのキモさとは大違い」

と容赦のない一言が返ってきた。

正直、結構傷ついた。

しかし、その言葉を反芻するうちに、
いわば「承認の潔癖症」だった
これまでの私の心が、

大きく形を変えようとしているのを
内側から感じていた。



現在。
私は未だに「承認欲求」の塊だ。
というか、これまでと何も変わっていない。

これまで足掻き続けた日々は、
完全な徒労と終わってしまった。

圧倒的な敗北宣言。

しかし反面で、

【「承認欲求」を全面に押し出す人ってキモいよね〜】
と蔑まれガチな世の中で、
それでも「私を凄いと言って!」と声を張り上げ続けられる人は、
本当に純粋で、正直で、尊敬される人なのでは、と考える様になった。

もうだからいっそ、
私も「凄いと言われたい欲」
から良い側面を見出して、
醜く突っ走って行きたいと思った。

これまで踏んでいたブレーキを解放し、
間違った方向に進んだとしても、
アクセルを踏み続け、
門扉を叩き続ける人間として生きようと。

物知り顔な知識人達に「心が貧しい人達」と揶揄されても。

自分にとって気持ちのいい自分を、
勝算とか打算とかを無視せず、
全部ないまぜにしてでも
選び取る時が来たのだと感じている。


数月程前に、
ツイッターを再開してみた。

そもそも名前が「ツイッター」で無くなったことに驚いた。

試しにと思って、
自分のメイク写真をあげてみた。

でもやっぱり、すぐに削除してしまった。
褒められたがる自分の薄気味悪さに、やはり耐えられなかった。

私にとって、
「承認欲求」との上手な付き合い方は、
すぐには克服できないほど、
根深い問題だと言うことを再確認した。

自信満々に
自分の姿をあげていられる人は、
やっぱり倦厭してしまう。

私も本当はそうしたい。
「マジで最高な私を見て!」
周囲を気にせず
声を張り上げて叫びたい時があるからだ。



大学時代からの付き合いである
カメラが趣味の友人に、
メイクをした自分の写真を送った。

「今度この格好で、
最高に可愛い俺の姿をとってくれ」

返事は、
「上京して何があった?」
だった。

手始めに、彼に見てもらおう。
そして、褒めてもらおう。

最高に素敵な写真を撮ってもらって、
最高にご機嫌な自分でいようと誓った。



「承認欲求」。
現代を生きる上で、決して避けて通れない宿敵。
そいつはあまりに強大で、敵対は無理そうだから、
ここはひとまず共闘してみることにした。

メイク時の姿。
行き場のない感情と共に、ここに晒して供養させて頂く。


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