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日常の「幸せ」探し

友達との何気ない会話って、案外覚えていないものだ。

話している間はすごく楽しくて、すごく面白くて、すごく共感できるのに、少し経ってから振り返ってみると、内容をはっきりと思い出せないことが多い。

霧がかかった先にぼんやりと見える建物の明かりのように、ちょっと濁った川にうごめく魚の影のように、確かにそこに「ある」のに、その全容は掴めない。

対象を捉えようとすればするほど、前を覆う霧や濁りが濃くなる感じがして、結局、諦めてしまう。

諦めるというと、なんだか聞こえが良くない。夢を諦めるといえば、叶える努力を放棄することだし、進学を諦めるといえば、進みたい(もしくは通うべき)学校には行かず、就職ないしは働かないという別の選択肢をとることを意味する。つまるところ諦めるとは、やろうと思っていたことを自らの意志でやめることである。

自分の行動をストップする行為だからだろうか、諦めにはどうしてもマイナスなイメージが付きまとっている感が否めない。確かに、諦めずに一歩踏み出してみることで上手くいくことはある。思い返せば、中学の部活動はまさにそうだった。サッカーをしていたのだが、入部した当初は全くボール操作ができなかった。特にひどかったのはシュート。ボールを浮かせたり、長い距離を飛ばすコツがなかなか掴めなくて、最初の数か月は悔しい思いをした。でも、諦めずに練習を続けるうちに、徐々に力強く蹴れるようになり、ゴールネットを揺らせるまでになった。

そう。諦めずにトライすることは大事なのである。大事ではあるが、楽しかった出来事を詳しく思い出そうとするのは、諦めていいと思っている。むしろ、諦めた方がいいとさえ思う。それは、あれをしたとか、これをしたという出来事よりも、そこで感じたことの方が遥かに重要だと思うからだ。会話の内容やそこでの営みが思い出されなかったとしても、楽しかった、面白かった、嬉しかったという何かしらの感情がそこに「ある」のなら、それでよいではないか。

友達との何気ない会話を引き合いに出したが、これに限らず「なんかあの時楽しかったよな」という思い出は、それぞれにあると思う。それは家族で行った旅行かもしれないし、部活動かもしれないし、趣味に費やす時間かもしれない。

かつて経験した楽しかったり、嬉しかったりした瞬間や場面に思いを馳せていると、なんだか温かい気持ちになる。「あの時楽しかったなぁ」と思うだけではなくて、「ああ、なんかいいな」と何となく心地よく、どことなく穏やかな気持ちになったりする。夜、キャンプファイヤーの後に消したはずの火が、翌朝見ると実は消えていなかったみたいに、過去の温もりが今にも生きていることがあるみたいだ。

温かい「過去」があって、それを思い出している「今」の自分が温かい気持ちになる。

これが「幸せ」なのではないだろうか。

楽しい思い出を楽しいと感じられることこそが「幸せ」だとして、問題はどうやったら幸せになれるか、そして、この先も幸せでいられるかということだ。「今」この瞬間も、少し経てば「過去」になって、思い返す対象になるはずだ。とすれば、「未来」の自分の幸せを担保するには、楽しさや嬉しさのようなプラスの感情を抱く経験をしておく必要があることになる。

楽しい出来事って聞くと、何となく日常的ではないものを想像するのは僕だけだろうか。テーマパークで遊んだとか、海外に旅行に行ったとか、賞をいただいたとか、そういう普段とは違う出来事には感情を動かされやすい感じがする。

僕が言いたいのは、こういう非日常的なことをたくさん経験した方がいい、ということではない。むしろ、日常に楽しみを見出す工夫こそが大切だと思う。

日常に楽しみを見つけるために自分がおこなっていることがあって、それは毎日日記を付けることだ。これは普通の日記ではなくて、毎日楽しかった・良かった・上手くいった・嬉しかったというプラスの出来事だけを記録するものだ。記載する数も毎日10個と決めて、今年の2月くらいから継続している。10個というと大変に思うかもしれないが、本当に些細なことでも良しとして、いつもより早く起きた、○○を買った、○○と話した、みたいな他人から見るとチョーどうでもいいようなことまで書いている。

こうやって記録を付けるようになって「一日って意外と長いんだな」と感じるようになった。毎日10個書くことがあるくらいには、いろいろな行動を起こしていることが分かってくる。

日常に楽しみを見つけ、それがいつかの自分の心を照らすことを信じて、これからも日記をつけていきたい。そして、そんな毎日を積み重ねて、死に際に「幸せだった」と思える人生を歩めたらと思う。

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