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雨の日の物語-前編-【小説】

目が覚めてすぐ、俺は全身が汗ばんでいることに気が付いた。着衣泳をした時のような不快さが、全身にまとわりついている。比較的汗をかかない体質だからか、余計にその感触が気持ち悪い。

何か怖い夢でも見たのだろうか。それとも、毛布をかけすぎたのだろうか。

不快の原因を思案しながら、おもむろにベッドから出て、くすんだベージュのカーテンを開けた。

朝7時10分。部屋の外は、このところ続いていた晴天が嘘みたいに、真っ暗だった。どうやら灰褐色の分厚い雲が、太陽の光を完全に遮っているらしい。こっちの心を暗く染めてしまいそうな空から逃れるように、いそいそと学校へ行く準備を始める。

着替えを終えて下に降りようかというところで、右の膝の下あたりに妙な違和感を覚えた。鈍い痛みというべき感覚は、段を下るごとに増していく。

リビングのソファーに到達する頃には、左の膝にも痛みを感じていた。そして、この痛みには何となく心当たりがある。予想を確かめるように、俺は薬箱の中を体温計を引っ張り出してきて、脇に挟んだ。

…ピピッ。ピピッ。ピピッ。

38.1℃。ビンゴ。予想は当たったけど、全然嬉しくなんかない。クイズに正解して嬉しくないのって、こんな時と、貰える賞品がしょぼい時くらいだろう。

そんなことを考えていると、急に全身がだるくなってきた気がした。これだから熱を計るのは嫌なんだ。「熱がある」って自覚すると、体調の悪さが冗談抜きで5割増くらいになる。でも、熱を計らないことには体の不調を理解できないし、病院で適切な診断も受けられない。恐るべし「発熱のジレンマ」。

7時35分。徐々に本性を現してきたけだるさに、座っていることさえままならない。ただ横になって、時計の針が刻む狂いのないリズムを、無抵抗に浴び続けることしかできないほど、しんどい。この状態では、とうてい学校に行けるはずなどない。休みをとるしか道はないが、学校に電話を掛ける決心がどうにもつかなかった。

それは、この間のホームルームで担任が口を酸っぱくして、「いいですか、みなさん。学校への休みの連絡は『保護者』にお願いしてください。ずる休みを無くすのもありますし、保護者がみなさんの様子を知らないのはマズいというのもあります。繰り返しになりますが、休みの連絡は『保護者』からでお願いします」って言ってたからだ。普段の担任の話なんて全然覚えていないのに、この時の言葉はしっかりと記憶に残っている。

まあ、黙って父に頼めばいいのだが、「アイツ」に頼むのだけは気が乗らない。ここ数ヶ月間、ずっとまともに口を聞いてないし、第一、仕事で忙しくて俺のSOSになんか気付きやしないだろうし。

とはいえ、担任の忠告を無視してまで電話をする勇気は、俺にはない。仮に電話をしたとして「どうして親からの連絡じゃないんですか?」なんて、後で聞かれるのも面倒だ。

そうかといって、今の状態では座って授業を受けられそうもない。幸いなことに、思考の方は正常に機能しているみたいだけど。

ジレンマにしばらく悩んだ末、あの人に電話をかけることにした。もう連絡しまいと思っていたが、こんな状況で頼れるのはあの人以外にはいない。藁にもすがる思いだった。

だるい体を少し起こして、意を決し相手に電話を掛けた。

一度目は繋がらなかった。が、諦めきれずに再び発信ボタンを押す。プルルルルという音が四回流れた後で「あ、もしもし? ワタル、どうしたの?」と聞こえた。

紛れもない母さんの声だ。

「あ、もしもし、俺さ、ちょっと頼みたいことがあってさ、その、熱『ハチド』くらいで、学校休もうと思って」

「熱? 大丈夫?」

「うん」

「あの、お母さん、連絡すればいいってことだよね? ワタルが休むってこと」

「うん、お願い」

「うん、わかった。じゃ、切るよ」

「じゃあ。あ、待って」

「ん?」

「あのさ、病院、一緒に行ってくれない? 時間あればでいいんだけどさ、その、一人だと行けないかもだから」

「うん、わかった。えーっと、30分くらいで着くと思うから、少し待ってて。何かあれば、また電話して?」

「ありがと。じゃあ」

「はい、また」

2分半ほど話したところで電話が切れた。

母さんの声を聴くのは、一か月半ぶりだった。さほど月日は経っていないのに、滅多に会わない友人にはたと出くわした時のような、懐かしさと嬉しさがこみ上げた。それでつい、病院連れて行ってくれないかな、なんて余計なお願いまで。でも、母さんは嫌がる素振りなんか微塵も見せず、それどころか二つ返事でお願いを聞いてくれた。冷たい「アイツ」とは大違いだ。

ソファーに再び寝転がった俺は、目を閉じて、母さんが居なくなったあの日のことを思い返し始めた。

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