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文字と画像が物理距離をラクラクと超えてゆく今の時代の「伝える」を考えた(雑考)

コミュニケーションってなんなんでしょう。
伝えるってなんでしょうか?

今の世の中は一億総スマホ時代。
SMSやメール、LINEといったツールのおかげで毎日何かしら「文字」や「写真(ときにはイラストやスタンプ)」でやり取りをしていて、SNSによって個人が情報発信をすること自体が日常茶飯事に。

最近ライターとかフォトグラファーと名乗る人が体感的には多くなった気がしていますが、「伝える」手段や道具がかなりカジュアルになったから、文字や写真で表現する人が増えたのかなぁと思っています。

物理的に手紙やモノを送ることに意味はあるのか?

物理的な距離があっても文字や画像(映像)を即届けられる今、わざわざ「モノ」をもって伝えることに意味はあるのでしょうか。

ここ最近人と出会うと、

「全然会ってないのに、近況はSNSでみているから会っていない気がしない!」

と言われることが多いです。(特にわたしはSNSに近況ダダ流しなネット常設女なので余計にそうなります笑)
これを言われた時、わざわざモノ(手紙)を通して自分の近況を伝えること自体に大した役割は無くなってしまったのだな、と思いました。
おそらく、電話やインターネットがなかった時代のコミュニケーション手段「手紙」の役割はもう終えていて、別の存在になりつつあると思っています。

物理的にモノを送る意義のカギを握るのは、電子信号では届けられない感覚。

相手にわざわざ手紙を送る時、何を考えて一筆認めるのかなぁと考えてみたら、私は「時間」を感じてもらいたいから手紙を選ぶのかもしれない、と気づきました。

タイピングであっという間に伝えられる電子の文字ではなく、手紙とは手で書き、清書して、封を閉じて切手を貼り、ポストへともってゆく。少しゆったりとした時間の中で生まれます。
そして何より、その手紙の内容が書かれたのは、宛先に届く数日前。
本人が考えてから、相手に届くまでに少しの時間が必要になる。
わたしはなんとなく「この手紙を用意してくれた時間」を感じて気持ちが少し高揚する気がしています。

また、よくよく考えてみれば、手紙が伝えられるものは文字情報だけではありません。

例えば、便箋に少し残った香りとか、何かをこぼしたシミがあるかもしれません。そもそも手触りの良い便箋をわざわざ選んだのかもしれない。モノが持つ情報は案外多いものです。

遠く離れているからこそ、送ることにした「香り」と「味」

少し脱線しますが、実は昨年の夏から、わたしは地元岡山の夏の風物詩「白桃」を知人友人へお贈りするというMYプロジェクトをしてきました。

少し岡山の白桃の話になりますが、岡山産の白桃は贈答品としてとても高価な値段がつくもので、東京の某高級スーパーでは1玉1500円もするものも見かけたことがあるほど。
しかし、かなりの高級品になってしまうせいか、東京や大阪に住んでいる間に岡山の白桃とお目にかかれたのは物産館くらいでした。
だいたい流通しているのは山梨・和歌山・福島の桃。
関東にいる人たちだけでなく、関西の人であっても味わったことがないだなんてちょっとしたショックで、わたしがどこの人へも自信を持ってお勧めしたい県の名産品を一度食べてほしくて、勝手に岡山のことを宣伝するつもりで始めたのがきっかけです。

何より白桃は「香り」が豊か。
いくらインターネットで素敵な写真を掲示して「美味しいです!」「最高です!」と呼びかけたって、あのあの清涼感と甘さの絶妙な加減は嗅いだことのある人しかわかりません。
どんな人でも幸福な気持ちにしてくれる。それくらいの自信がある産品の良さはインターネットを通じて文字や写真で工夫を凝らしたとしても、それだけでは伝えきれない情報があまりにも多すぎる。

だったら、「直接届ける意味があるよね」という発想で始めたのがこのプロジェクト。

(乾燥が誤字……汗)
ひとまず今の私は、モノを送ることがちょっとしたブームです。

スマホやPCの画面だけでは感じられない感覚を届けること。
直接会えない物理的な距離があるからこそ、普段やりとりのできない感覚を届け合うことで生まれる感動や感想を起爆剤に、また新しいコミュニケーションが生まれるのではないでしょうか。

普段届けられない「香り」「味」「触感」「温度」を伝える。

この残された領域をやりとりすることに面白さを感じています。感覚の交換こそが、これから人を動かす何かになる。おそらくたくさんの工夫の余地があるなと思ったというお話。

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