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高知の旅

 この記事に目をとどめていただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
 ちやうど一年前、高知県を旅しました。その時のことを思ひ出して、書いてみました。記憶が曖昧になつてゐることを恐れてをりますが、どうか、最後までお付き合ひください。

サンライズ瀬戸の旅

 出発は、東京駅。二十一時半頃に東海道本線のホームにゐました。小さなかばんに、ビニール袋。ニューデイズでウヰスキーの水割りとチョコレート、明日の朝食を買ひました。しばらくしたら、本日の宿となるサンライズ瀬戸号が入線してきました。この285系のサンライズエクスプレスといふと、私は出雲の方をよく利用してゐました。瀬戸は今日で二回目になります。前回、瀬戸に乗つたのは、確か大学三年生の頃でした。伊予の温泉(ゆ)、さう道後温泉に行つた時です。随分、年月が経つたものです。


 個室(ソロ)に乗り込むと、すぐに着替へてお酒を口にしました。乗車前にサウナで汗を流してきたので、シャワーカードは買ひませんでした。
 定刻二十一時五十分にサンライズ瀬戸・出雲号は東京駅を発車しました。新橋、品川の通勤客を尻目に車内でお酒を飲んでゐると、すぐに眠くなりました。いつ検札を済ませたかわからないまま、起きたのは岡山駅を発車した後、六時半過ぎでした。

 朝日影 豊栄のぼる 瀬戸の海の 海人の釣り船 漁りするかも 可奈子

 岡山駅を出て、さらに児島駅(六時五十二分)を経てしばらく行くと、瀬戸大橋を渡ります。その景色はまるで空から瀬戸の海を眺めてゐるやうな感じがします。朝日影豊栄上る海の上を、海人の釣り船がめいめい漁に励んでゐます。

狭岑島

 車窓から柿本人麻呂が石中の死人を見て歌を作つた狭岑島はどこにあるのか、探してみました。現在の沙弥島がさうです。

 この時に歌はれた人麻呂のその長歌も人麻呂らしい見事なものですが、その反歌二首も優れてゐませう。

 妻もあらば 摘みて食げまし 狭美の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや(巻二・二二一)
 (せめて妻でもゐたら、共に摘んで食べることもできたであらう。狭岑の山の野の嫁菜は、すでに盛りを過ぎてしまつた)

 沖つ波 来寄る荒磯を しきたへの 枕に枕きて 寝せる君かも(巻二・二二二)
 (沖つ波のしきりに寄せる荒磯を枕にして、ただ一人で寝てゐる君よ)

 瀬戸大橋を渡り、沙弥島を尻目にしばらく列車は走ると、七時二十七分に高松駅に到着しました。サンライズ瀬戸は高松が終着ですが、今日は琴平駅まで延長して運転してゐます。しばらく高松駅に停車するので、構内を歩き回りました。残念なことに、讃岐うどんを食べさせてくれるお店は折からの武漢熱禍で閉まつてゐました。
 讃岐うどんを食べられなかつたので、仕方がなく昨夜購入してゐたおにぎりを車内で食べました。そして、八時二分。定刻になり、サンライズ瀬戸は琴平に向けて出発しました。車窓は、先ほどの瀬戸大橋から眺める海に比べたら単調でしたが、都会では見られない田舎の景色を楽しむことができました。善通寺駅に八時三十二分到着。ここは乃木希典将軍と、弘法大師空海ゆかりの地です。
 終点琴平には、八時三十九分に着きました。

サンライズ瀬戸号 琴平駅にて

土讃線の旅

 琴平に来るのは、私が最初に勤めてゐた企業を退職して以来です。二十年近く前のことで、当時は街中にあるホテルの温泉(いはゆる、こんぴら温泉)に入りました。金刀比羅宮や金丸座など、行きたいところもあり、ゆつくり散策したいのですが、今日は先を急ぎます。缶コーヒーを飲みながら、ホームで乗り継ぎの列車を待つてゐると、間もなく、特急しまんと5号が来ました。

 しまんと号の車窓では大歩危、小歩危の景色が注目されるところです。しかし、私は途中の坪尻駅といふ秘境駅に目を凝らしました。一瞬で通過して行きますが、誰が住んでゐるのだらう…と思はずにはゐられない不思議な場所にある駅です(実は一度、降りたことがあります。とんでもないところです)。また、かつてここで殺人事件も起きたとか…。

谷秦山先生の奥津城

 しばらく乗車して、十時二十五分。最初の目的地である土佐山田駅に着きました。土佐山田は、谷秦山先生の奥津城(お墓)があります。
 谷秦山先生といへば、山崎闇斎先生の学(崎門学)を継承し、『保建大記打聞』などで知られてゐる大学者です。
 平泉澄先生の『先哲を仰ぐ』(錦正社)には、

「谷秦山は、闇斎絅斎の学を受け、大義名分を説く事、極めて厳正であつた為に、当路に忌まれて禁錮せられ、一生を志を得ずして終つたのであつたが、その精神は永く子孫に伝はり、脈々として絶えず、遂に明治に入つて、その家より谷干城将軍を出したのであつた。」

 「かやうに君国に志を存する者が、悪衣悪食を恥ぢず、居の安きを求めないといふに就きまして、私の想起しますのは、谷秦山先生の事蹟及び若林強斎先生の言葉であります。この両先生はいづれも大義を明らかにするを以て一生の務とせられたのでありますが、秦山先生の貧窮は、祖先の墓参をしようとして、着てゆく着物がなく、友人に依頼して木綿の袷一枚を借用せられた程で、その借用の依頼状は文章今に残つて居ります。そればかりではない、食べるにも物がありませんで、時々絶食せられたのでありました。しかも先生は少しも之を意に介せず、
『某去年乏絶ノ中、時ニ或ハ粮ヲ断ツ、某ハ則チ男児、何ヲ以テカ顰蹙セン』(秦山集)
といつて居られるのであります。」

 「それがただ、貧困のみではない。やがて、土佐藩ですが、藩の怒りをうけて禁錮される。禁錮のうちにあること十二年、良い人が苦難をうけること至れり尽くせりと言つてよい。それを伝に書いてありますが、「先生既に禁錮せられて、毫毛も怨尤の色無し」罪なくして禁錮せらえてをりながら、少しもうらみ、いきどほるきもちがない。これは『拘幽操』の精神です。」

 「ところが、その人が十有余年禁錮せられて、そのままなくなる。五十六でなくなる。そのお弟子がずつと続いて、お弟子ぢやありません、お弟子もつづくが、子供が垣守、垣守は「御垣守」の意味でせう。天皇陛下の護衛兵といふ意味ですね。垣守、その次好井、景井、その子が谷干城将軍。秦山の孫の孫が干城将軍。そしてこれが同じ精神で、この学問をうけ伝へてゐる。干城将軍、親からの教として、常に言つてをられたことがある。それは、京都に万一のことが有つた場合には、何をさしおいても京都にのぼれ。もし旅費がないといふのであれば、乞食をして行け。行つて陛下をお守り申しあげろ。もしどうにもしやうがなくて、力尽きたといふときには、しやうがない。御所の塀に寄りかかつて死ね。死んでも御所の塀の土になつて、御所を守れ。これがこの家の家訓、家の教えであります。
 これが神道の精神、これを離れて神道はない。」

 「(谷干城は)農商務大臣として洋行しまして、明治十九年にこの人(シュタイン)をしばしば訪ねて、その教へを受けてをります。その記録を見ると、シュタインといふ人は抜群の学者といはなければなりませぬ。死んだ学問ではありません、生ける学問であります。その一例を申し上げますと、シュタインが谷干城将軍に向かつて言ふには、「日本は将来必ずロシアと戦争になるだらう、このことを決して忘れてはならない、その日露戦争となつた場合に、戦場となるところは北海道ではないぞ、必ず朝鮮であるぞ、このことを肝に銘じておけ」。これが谷干城将軍に非常に大きな感銘を与へて居るのであります。」

 「西郷さんは、私は偉いと思ひますし、大西郷は、私はこれを非難するに忍びない。実に気の毒なお方なんです。非難するに忍びないが、しかし陸軍少将、勅命によつて熊本鎮台を守る。これが薩摩の軍勢、勅許なくして妄動する薩摩の兵を通すわけにはゆかない。ここで薩摩軍からは、熊本鎮台へ交渉に行つた。陸軍大将西郷隆盛、朝廷に申し奉る筋が有つて、兵を率ゐて上京する。就いては、熊本鎮台は整列してこれを城下に迎へるがよい。これに対する谷干城将軍の答は、陸軍少将谷干城、勅命によつて熊本鎮台を守る。勅命によらざるものは、みだりに城下を通過することを許さぬ。これは谷干城、偉いですね、何とも言へぬ偉い人だと思ひます。抜群の人物です。これが、秦山先生の百五十六あとに発揮された大きなはたらきです。」
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社
国旗が奉納されてゐます

とあります。引用長くなりましたが、真の日本人といふべき人物です。他にも、平泉澄先生の『万物流転』に谷秦山先生のことが「炳丹錄序」(これは先生の学問の神髄を記してゐると言つても過言ではありません)と共に述べられてゐますので、お読みいただければ幸甚です。
 かねてから谷秦山先生に憧れてゐた私は、その奥津城を拝するために、土佐山田まで来たのでした。

 奥津城、さう、秦山先生の御墓所は、駅から歩いて二十分程度のところでした。秦山公園にたどり着き、奥津城へ続く階段を登ると、たくさんの国旗が棚引いてゐました。話しには聞いてゐましたが、実際のそれを見て、嬉しく、ありがたく、そして先生の学問をわづかでも継承できるやうにありたく思ひました。

 奥津城は ここにありけり 日の御旗 はためく見れば 身の毛いよ立つ 可奈子

谷秦山先生奥津城の説明

 谷秦山先生の奥津城を拝した感動のまま駅に帰り、今度は高知駅に向かひます。今度は特急南風3号に乗り、高知駅を目指します。すぐに高知に着くと、私は駅前で自転車を借りました。自転車に乗り、まづ目指したのは、鹿持雅澄の奥津城です。

鹿持雅澄の奥津城

 今、雑誌「日本」に鹿持雅澄の『万葉集古義』を若い人たちに紹介する論考を連載してをります。折角、書かせてもらつてゐるのに、鹿持雅澄の御霊に対して御礼や志しを述べてゐないことを以前から遺憾に思つてゐました(以下は「万葉集古義に学ぶ 四」です)。

旧宅跡

 高知駅から自転車を漕いで二十分くらゐだつたでせうか。途中、迷ひながらも無事に旧宅跡に着きました。今では、手狭な空き地ですが、ここで大著『万葉集古義』が書かれたことを思ふと心身の引き締まる思ひがしました。敷地内には、佐佐木信綱の手による顕彰碑が建つてゐました。

鹿持雅澄旧宅跡
鹿持雅澄歌碑
佐佐木信綱歌碑

 「日本」にも紹介しましたが、雅澄の妻が、雅澄を

 ますらをは 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(十九・四一六五)
 (ますらをたる者は、名を立てなければならぬ。後の世に聞き継ぐ人も、永遠に語り伝へてくれるやうに)

 の大伴家持の歌で励ましてゐたことを思ひ出しました。
 旧宅跡から、しばらく行くと鹿持雅澄を祀る鹿持神社があります。分かり辛い場所にあり、探すのに難儀しました。とても小さな神社ともいへない、祠のやうな神社でありましたが、雅澄の御霊に思ひを告げました。近くには奥津城もあります。小さな墓石でした。
 なほ、雅澄のことと『万葉集古義』のことについては、「日本」に載せていただいた拙論をお読みいただければ幸甚です。

 夏草の しげく生ひける このにはに 歌まねびする 君の俤 可奈子 

鹿持雅澄邸跡 看板

武市瑞山

 最大の目的であつた雅澄の奥津城を拝した後、私は高知市内を自転車で巡りました。自転車は有難いことに無料で借りることができました。まづは、武市瑞山殉節地を訪ねました。街中の隅に小さな碑が建つてゐました。高知といふと坂本龍馬が第一に想像され、かつ顕彰されてゐますが、私は龍馬よりも武市瑞山を讃へたい。私の師がいはれるには、龍馬は歴史に瞑かつた、とのことです。

武市瑞山 殉節地

 さらに自転車を飛ばし、吸江寺に行きました。ここは山崎闇斎先生が若い頃に修行をされてゐたお寺です。当時は盛えてゐたのでせう。今では、当時が想像もできないやうなお寺でした。吸江寺の近くには野中兼山を祀る兼山神社が、さらに行くと高知縣護國神社も鎮座してゐました。どちらも、参拝させていただきました。なほ、谷秦山先生は、野中兼山の娘である婉に対して、文通をし、支へてゐたことが知られてゐますし、秦山先生も兼山、婉も不遇を生きた人でした。

 お墓巡りのやうな感じになつてゐますが、次に目指した場所もお墓です。さう、武市瑞山の奥津城です。長い時間自転車を漕ぎ、やうやく目的地に到着しました。ここは、武市瑞山の旧宅もありますが、現在でも使用してゐるので中には入れませんでした。

 瑞山を祀る瑞山神社を参拝し、その奥にある瑞山と妻・冨子の奥津城を参拝しました。雅澄も妻の支へがあつて『万葉集古義』を完成させましたが、瑞山も立派な妻・冨子の支へがあつて活動できたのでありませう。現代の女性は「私が、私が」といふ我の強い方が目立ちますが、二人の妻のやうな人に私は強く憧れます。とても及びませんが。
 瑞山のことも「日本」に少しだけ書いてゐます。石平氏の書いたこちらの書(『日本の心をつくった12人』PHP新書)もわかりやすくて良いです。

武市瑞山旧宅(見学はできません)
瑞山神社境内の瑞山記念館

月の名所は桂浜

 最後に、桂浜を見て帰らうと思ひ、自転車を海に向かつて漕ぎました。潮風と陽の光が気持ち良く、適応障害に苦しんでゐた私を癒してくれました。浦戸大橋では思はず、足がすくみました。。左は自動車、右を覗けば海。天照大神、不動明王、柿本人麻呂の御霊に無事を祈り、不動真言を唱へながらなんとか渡りました。本当に怖かつたです。後で知つたのですが、飛び降りも多いみたいですね。
 くはばらくはばら。

浦戸大橋

 土佐の海の 磯もとどろに 寄す波の いやしくしくに 君を思ほゆ 可奈子

 月の名所は桂浜といひますが、晴れた日の桂浜もまた絶景でありませう。小さな水族館もあり、恋人と来たらとても楽しい場所のやうに感じました。

桂浜

 アイスクリンを食べ、海を堪能し、再び自転車に乗り高知駅に戻りました。さういへば、高知の名物を何も食べてゐないことに気が付いたのは、駅に着いてからでした。駅に向かふ途中、長宗我部元親の奥津城があつたので、参拝しました。

 駅に着き、北口にあつた高砂湯といふ銭湯で旅の汗を流しました。小さな銭湯でしたが、スチームサウナと水風呂が付いてをり、一時間半程度入浴しました。今風にいへばレトロな銭湯で、都内ではなかなかかういふ銭湯は少なくなつてきました。私の好きな上野の六龍鉱泉も廃業し、近代的な銭湯が多くなりましたのは仕方がないことなのでせう。
 また、サウナブームといふ宣伝に煽られて、やたらとサウナに人が増え、本当にサウナを好きな人がサウナを楽しめない状況だと私に日本学の指導をしてくださる先生が述べてゐました。集団でサウナや銭湯に来る人は、一人では不安なのでせうか。


 閑話休題。お風呂の後は、十七時四十分発の高松行き高速バス、黒潮エクスプレス号に乗りました。四国は狭そうで広い。そして、バスの車窓から見える夕陽がとてもきれいでした。
 夜八時に高松に着き、さらに東京方面行きの夜行バス、ハローブリッジ号に乗り、帰りました。結局、讃岐うどんも食べられませんでしたが、近所の丸亀製麺を食べたからヨシとしませう。
 最後までお読みいただき、感謝します。ありがたうございました。

 たのしみは まがなの道の 窓を見て 文を読みつつ 旅に出るとき 可奈子

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