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「ケア」はすぐ身近にあるもの/ケアする人のケアセミナーin岐阜

「ケアする人のケアセミナーin岐阜」に参加。

自分としては、コミュニティ運営やコーチングなどの仕事を通して知らず知らずのうちに「ケア」の領域に入ってるのでは?という自覚がありつつも、明確に定義できず馴染みのないものでもあるので、「ケア」ってなんだろう?ということを学びたかったのがきっかけ。

以下、ツイートした感想をざざっとまとめ。

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IAMASの金山智子さんの講演、面白かった。
ラジオというメディアを通して広くケアがなされてる事例から、外と自分との繋がりを持ち、関心を持って話を聞くことで、相手の自己肯定感を高めたり愛情を感じられる交感の場となる、ということ。

ラジオでは言葉で伝えるだけじゃなく、ポジティブな雰囲気を表す非言語コミュニケーション(うんうん、とか、わぁ!とか)も大事。
また、辛いね、頑張ったね、嬉しかったんだね、みたいな、「共感」と「確認作業」が、大切にされている=ケアや愛情に結びつく、と言われ、なるほどと思った。

ケアって、福祉や介護の世界だけじゃなく、身近なところで自分もできるし与えられてるし、ってものなんだなぁと。
また、そもそもケアは「関心を持つこと」から始まる、というのがしっくりきた。

産業や軍事から発達したテクノロジーが、今はケアやウェルビーイングの視点で有効に使われる時代になってるという話も面白い。

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次の対談はメディコス吉成さんと、たんぽぽの家理事長の播磨さん。

宮沢賢治の幸福感と利他の精神、というテーマ。
コミュニティの運営に関わる身としては、「小さなつながりをたくさん作る」ことがみんなが幸せに生きる方法の一つである、ということに勇気をもらうなど。

工場で生産される苺に話しかけるエピソードで、話しかけると美味しくなるみたいなスピリチュアルとかはちょっと、と一瞬思ったけど全然そうではなかった。笑

苺も私も同じ生き物、自然の一部であるという「意識の繋がり」を忘れないことで、メタ的には全ての生き物を大切にすることに繋がるのだな、と解釈した。

ここでも「ケア」は特別な人たちの概念ではなく、お互いが幸せに生きられるように支え合うことを意味すると言っていた。

少しずつ、「ケア」という遠い存在が身近になってきたぞ。

そして改めて、自分がやってきたことって、やっぱり「ケア」という側面もあるのでは、と思えた。
かかみがはら暮らし委員会というコミュニティによる居場所づくり、カクカクブックスという本屋を通して知る時間や対話時間の提供、趣味のラジオやSNSでのメッセージなど、、、も。

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最後の哲学対話は1番頭使った。

当たり前(常識)のことから一旦自分を切り離して「そもそもそれはなんなのか」を自分なりのロジックを伝え合って対話する。

コーチングのプロセスも「問い」を対話形式で突き詰めていくので似てる。だから自分はこのスタイルが合うんだろうな。
対話そのものの過程を面白がりたい。

テーマは「人が人として生きられる社会」

自分としては「人とは」「社会とは」をまず分けて考えた。
人=「主体性」、社会=「寛容」、そこを「思いやり」で繋ぐことでテーマが成り立つのでは?と思った。
いや、もしかしたら寛容と思いやりは「安心感」という言葉で、より抽象概念にできるかも?とも思ったり。
答えはでないけど。。

哲学カフェの作法はかかみがはら暮らし委員会の大事にしてることに似てる。
対等性があり安全が確保される場所。

対話を通して個々の考えをやりとりしていくと広がったり萎んだり混沌が生まれたりする。
私はそういうものを交通整理をするファシリテーター的な位置が好きだし、やれたらいいなぁと改めて思った。

ケアする人のケアセミナーによって、自分がとても整理された上にアップデートできた感じもする。

仕事でもコミュニティでも、やってきたことが間違いでないなという自信がついた。
プラス、「ケア」という視点があることで今まで見落としていた部分にも関心がいく=愛情みたいなものが芽生えそう。

良い会でした。
お誘いいただきありがとうございます!

自分が楽しいことをしてたらうっかり周りも楽しくならないかな?という気持ちで活動しています。応援してもらえるととても嬉しいです!