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教育の現場で「戦後」は終わっていない ーちょっと興味深い話ー


「もはや戦後ではない」というセリフを聞いた記憶があります。長期政権を成し遂げた総理大臣の言葉でしたか。

ところが、教育の現場には、未だに戦後の影響が残され、学校を旧態依然とさせる要因となっています。

GHQのアメリカモデル

戦後の日本には、GHQによって、アメリカモデルの教育が持ち込まれました。しかし、戦後の物質不足、資金不足、人員不足の中では、理想の多くを諦めざるを得ませんでした。もし、それをうまく実現できていたら、今頃、日本からもたくさんのユニコーン企業が生まれていたかもしれません。今や日本の教育は、欧米に30周遅れくらいの差をつけられているイメージです(私感覚ですが)。

海外と日本の違い

基本的に、アメリカの教育は「知」のみを担います。「徳」「体」は学校外だそうです。何でも屋になっている日本とは違います。戦後は何でも屋でなければならなかったのは理解できます。が、それが当たり前に普及してしまい、今や公立学校はブラック企業なみの忙しさと、ただ働き、定額働かせ放題の様相です。多くの教師が病み、亡くなっています。このままでいいはずがありません。戦後の流れを75年も引き継ぎ過ぎです。

また、国語教育で言えば、アメリカは既に1940年代には多くの「本」を使った豊かな読解の授業を実現しています。教育の権限も州に与えられている上、教師の採用権/人事権も校長が持つようです。校長の権限が日本とは比較にならないくらい強いのですね。もちろん責任も。そうでなければ面白い学校なんてつくれません。日本の校長は、手足を縛られて「学力上げろや。責任とれや。」と言われているようなものです。

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日本の国語教育を例に考える

戦後は焼け野原。生き残った先生たちの力によって、教育が進められることになったのは想像ができます。戦前の思想によって軍国主義をリードした人たちは職を解かれました。

が、戦後持ち込まれたアメリカの先進的な読解教育を日本で実現するには、大きな困難がありました。焼け野原の日本には、教育を担当する人的資源だけでなく、教育に必要な「本」が少なすぎたのです。これによって、数の少ない本をしつこく「精読」するような国語の授業が生まれ、「本」を増やすことよりも先に、教科書の整備が進んだ結果、教科書の「精読」授業が研究される流れになったようです。こうして、教科書の「精読」が当たり前のように研究され、先進国の豊かな読解教育のラインを外れ、日本独自の教科書の読解教育「精読」が、ガラパゴス的に進化していくのです。

「精読」の授業では、生徒は教師の「解釈」を延々と聞いて学びます。そして、時々教師から発せられる発問に対する「正解探し」「正解あてっこゲーム」に強制参加させられます。良くてもワークシートの穴埋め作業です。

つまり、教師は「壇上の賢者」として君臨し、生徒を上から指導する存在となり、「正解」を教えるのです。こうして、正解が「是」となり、それ以外に価値はないというテスト点数重視の教育へ突き進むことになります。豊かな読解とは真逆の方向ですが、真面目な人ほど陥りそうなコースではあります。

「壇上の賢者」の時代

70年~90年あたりは、「壇上の賢者」による、根性重視の非科学的な指導が横行していました。

炎天下の体育で水を飲むことが許されなかったり、マスゲームという名の一糸乱れぬ集団演技の強制、組体操や騎馬戦によるカーストの黙認、けがは生徒が弱いから、教師の体罰は問題ナシ!男子生徒は坊主頭が必須、女子はブルマー強制、生徒が話を聞かないと言って授業を放棄し職員室に帰る教師(迎えに行かないと100倍怒られる)、怒りに任せて生徒に「帰れ!」と言う教師(本当に帰ろうとすると100倍怒られる)。

いやはや、教師はやりたい放題ですね。この時代の生徒は、抑圧された思いを校内暴力という形で表現しました。それを教師は受験で脅して支配する。子どもは金属バットを持つ。まるで戦争です。

誰のための教育なのか、誰のための学校なのか、全く見えない時代でした。こうした学校の荒れを体験した教師は当時の体験を武勇伝化して、よい記憶に塗り替えていくのです。あのころは良かった、と。みんなが頑張っていた、と。

近年、問題化した巨大組体操、トーチトワリングなどは、こうした時代の息吹を今に伝えてきます。これらを、危険な活動だからやめなさいと行政が指導しても、「生徒が頑張っているから」という言い訳のもと、「感動ポルノ」をやめることができない。苦しんでいる子ども、犠牲になる子どもがいる時点で、教育活動として不適切と思いますが、論理が通じない学校が、戦後75年、令和の時代に、まだ存在するのです。

インターネットが学校をバージョンアップする!

インターネットが身近になった昨今、ある教師が、当たり前の働き方を求めてインターネット上で署名活動を行ないました(challenge org)。このことを契機に、内田良さんなどの研究者の報告や、子どもの人権問題などが注目され、大きなうねりとなって、学校を変えていきたいという人たちの意思を顕在化させました。

こうした公立学校の様子が世間に広く露見したのは、奇しくもコロナ禍によって学校が機能停止に陥ったことによります。旧態依然とした学校の姿に、このままでは、子どもも、教師も、学校も潰れるという実感を多くの人が感じ取ったのです。

現代は、根性論よりも科学的思考が必要です。教育の全てを教師の善意と奉仕に頼るのはお門違いです。学校 /教員の業務の精選をしないと、もはや教育の持続が不可能になってきているのです。一刻の猶予もありません。

ブラック企業として認知された公立学校の採用試験の倍率は軒並み低下。現場は更なる人不足で、今日も仕事に圧殺されそうです。足りない人員を退職教員に頼れば、現場はまた古い価値観に支配されてしまいます。学校をバージョンアップするには新しい器と中身が必要です。

アメリカのように、学校の果たす役割を限定して、教師が授業に専念できる環境が必要です。州に教育が委ねられているアメリカは、働き方や仕事の構造を時代に応じて変えています。今では、生徒指導すら専任の担当がいて、教師は教科教育に専念できるのです。何でもアメリカがいいわけではないし、単純に比較はできないけれど、少なくとも日本よりはどれも進んでいて論理的です。また、北欧は教育にお金と人を割いてくれます。教育が、未来を創ること、個の幸せをつくることだと知っているからです。

現在の日本の教師や教育環境を生み出したのは、まぎれもなく戦後の政策です。戦後の経済、政治の諸事情が、当時の海外最新の科学的な教育をイメージ通りには実現できず、中途半端な政策に陥ったため、ガラパゴス化して今に至るのです。

長期に渡って教師の善意を利用して、点数で子どもを輪切りにしてレベル分けをして、教える喜び、学ぶ喜びを捨て、問題があるのに見て見ぬ振りをしてきた結果が、ブラック企業公立学校といじめ問題なのではないでしょうか。

新しい器と中身が今こそ必要です。教師は一人残らず、一人残さず、バージョンアップが必須なのです。「壇上の賢者」の時代は終わりました。

Googleという黒船

ICT化社会によって情報の壁は崩壊し、2000年代からは多くの海外の教育的実践が紹介されるようになりました。これまで一部のエリートが独占してきた様々な情報が広く知られるようになったことで、日本の教育事情の問題の根っこが見えてきました。

もはや学校そのものが不要と言う識者もいます。現代は、様々な学びが認められるし、様々な価値の創出が求められる時代なのです。例えるならば、教師は「壇上の賢者」から、「隣を並んで走る伴走者」に役割を変えるのです。

公立学校にGoogleが導入され、一人一台のデバイスが用意されるGIGAスクール構想。新指導要領の流れは、75年前に実現できなかった、教育先進国の成功例の導入です。これまでは考えられなかった「個別最適化」「多様性」という考えを現場に浸透させ、教師の授業観 /評価観を転換する必要があります。

これは戦後最大の大チャンスです。今度こそ、子どもの学びを最優先にして、生徒も教師もハッピーになれる学校を実現しなければなりません。それかできた時、初めて、戦後は終わったと言ってよいのではないでしょうか。

[参考資料] 

論文 読書人を育成する国語教育のあり方
小久保美子 - 国語科教育, 2016 - ci.nii.ac.jp

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェル 三省堂



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