※ネタバレ 観た!「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」を
朝六時起きで草野球をし、同日夕方というイカれたスケジュールで後編を観てきたので感想文を書いてみるとする。すでに観た・読んだ方はよかったら読んでみてください。
観た直後の感想
シンプルに「絶句」。
周囲にはカップル、友達連れ、ヴィレバンに通ってた過去がありそうなお一人様等さまざまだったが、マジで誰も喋らなかった。映画館の掃けの時って、あるじゃない?「あれ面白かったよね」とか「あの演出は誰某作品のオマージュで云々」みたいなガヤが。全くなかった。というか、まだ馴れ初めみたいなカップルからしたら地獄だろ。幾田りらとあのちゃんのW主演アニメ映画観に行ってあの結末。何も言えねえよ。
言葉を失いながら私が思っていたことをそのまま書くと、以下である。
「なんでよ?みんなとは言わんが、いい奴らだったじゃない。凰蘭の兄貴とかマコトくんとか、みんな木っ端微塵に吹き飛んでしまった。こんなふざけた話があるか?今日はもう眠れる気がしねえよ」
これっきゃない。善良な小市民としては真っ当至極な反応だろう。
寓話性について
しばしの間「お空きれい」状態に陥ったが、三十分ほどして我に返り、最初に考えたのが寓話性について。
そもそも寓話とは?とりあえずwikiの引用を示すと、
なるほど。「欲をかくと嫌な目に遭いますよ」とか「正直者は最後に救われますよ」とかいう、物語の持つ良心的な教訓、みたいなものだろうか。
全くの余談だが、かつて、真剣に、というか、深刻に小説を書いたりしていた頃、浅い縁があった先輩が「小説は寓話性だよ」と言っていた。
どうして文学とかそういった界隈の人たちはこういう濁した言い方しかせんものかと辟易するが、この度なんとなくわかったような気がする。
つまるところ「乗るか、反るか」ということだろう。映画にしろ小説にしろ、受け手は否応なく寓話性を前提に考えてしまうわけだ。
かくいう私も、(こんなクソ野郎はどこかで痛い目を見るだろう)とか(こいつは最終的に報われねえと嘘だろ)とか思いながら観たり読んだりしてしまいがちだ。
すなわち、「小説は(みんなが無意識に依拠してしまっている)寓話性(に準じたり反したりして感情を動かすことが肝要)だよ」ということに違いない。
話を戻して「デデデデ」だが、これは知らず知らず依拠していた寓話性にまるっきり反することでみんなを地獄に叩き落とすタイプのお話といえよう。なんで凰蘭の兄貴が消し炭になって小比類巻くんが生き残ってるんだよ?こんなふざけた話があって堪るか。
俺たちは知らず知らず期待していたんだ。小学校低学年の教科書で見た、寓話性とかいうおべんちゃらに。
終末後に生き残ってしまった人たち
「デデデデ」は終末モノ…ではない。
これは私の基準だが、終末モノというのは「ゾンビ」とか「サンゲリア」のような、人類の存亡がゼロヒャクで分かれる話だと捉えている。
とすると最終的に人類が滅びるか、生き残るかというのが肝となってくるわけで、例に挙げた「ゾンビ」と「サンゲリア」は滅びるタイプのお話だ。
そこを踏まえると、「デデデデ」はどちらでもない。
最終的に滅びたのは東京だけであって、劇中で仰々しく登場していた『人類滅亡まであとx日』みたいなアレは壮大なミスリードだったとわかる。だってゼロでもヒャクでもないから。ゼロかヒャクであってくれた方が幾らか救いがあったような気もする。
ここで注目したいのは凰蘭や門出といった生き残ってしまった人たちだ。
死後の世界云々の話題は長くなる上に落し所がないので割愛するが、生き残ってしまった人たちには友達家族恋人にもう会えないという非情な未来が待ち構えている。
この思考に至りやすいよう前編で敷かれていた布石がキホちゃんである。
キホちゃんといえば、女子高生のステレオタイプを地で行くようなキャラ設定で、曲者揃いの凰蘭たちの中では比較的マトモな人だ。
漠然と彼氏が欲しくなり、手近にいたよさげな男子と付き合い、一通り浮かれ、酷い失恋をし、友達の助けもあり立ち直る。
「女子高生」という記号が持つステレオタイプのど真ん中ではなかろうか。
ここで言うステレオタイプとは、例えば「学級委員長」と聞けば眼鏡の模範学生を想起するが、しかし「例えば誰?」と問われると案外ドンピシャな人物が見つからないような、どこにでもいるようでいて、その実どこにもいない紋切り型のことだ。
以上のように、キホちゃんは昔ながらの「女子高生」の紋切り型でキャラ付けも薄い。
しかし紋切り型の薄いキャラだったからこそ感情移入がしやすく、失恋し凰蘭らに励まされるくだりでは私もスクリーン越しに(次はもっといい男に会えるって!)みたいなベタなことを思ったりもした。それ故に、死んだ時の喪失感もより生々しく感じられたというわけだ。
そして、その布石の上に建つのが母艦の爆発である。
私のような平和ボケした小市民はだしぬけに「みんな死んでしまいました」と言われてもアホ面で思考停止するしかないが、私たちは既にキホちゃんの死を通して「突然友達がいなくなる」ということを理解していた。それどころか、以後の凰蘭が折に触れては「急にいなくならないで」と繰り返すものだからより克明に刻み込まれ、だからこそあの現実離れした大破壊をゼロ距離の悲劇として捉えられたのである。
(余談だが、死んでしまった人たちの中では渡良瀬先生が一番キツかった。親の介護で近々故郷に帰る、というくだりがあったが、理由はどうあれ田舎の両親は息子の帰郷を楽しみにしていたのではないか…とか想像してしまう)
そうして生き残ってしまった人たちは、それでも生きて行かねばならない。
最終盤に亜衣ちゃん(眼鏡の小柄な子)が映る度、そぞろにそういった含みを感じた。
東京方面の火柱を見て弟たちの死を悟り、SAで誰よりも泣いていた亜衣ちゃんだが、次に映った場面は仮設住宅の退去を命じられて困っているシーンだった。未来に絶望し自ら命を絶つでもなく、小比類巻くんのように危険人物に成り果てるでもなく、それでも前を向いて生きて行かねばならないのだと、端的でいて確と示されていたように思える。
「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」って何だ?
こんなわけわからんタイトルに意味がないとは思えない。
直訳すると「死んだ死んだ悪魔のだだだだ大破壊」…的な感じだろうか?
もちろんこのままではよくわからんままので、(デーモンって門出につけられた不名誉なあだ名だったような)とかそこんところ拾いつついい感じにすると…
『死んだ門出の大破壊』だ。
「デデデデ」は一見すると、侵略者との友情や恋愛が「偏見をなくそうぜ」的なメッセージを発する社会派映画であり大葉くんが母艦に乗り込むシーンなんかはハラハラドキドキのSFアクションで、社会性と娯楽性を両立した素敵な映画のように思える…が、思い出してみてほしい。
そもそも、東京が壊滅する世界というのは凰蘭が門出を死なせないために改変した世界である。つまりどういうことかというと、
「デデデデ」とは、一人の友達を救うために東京を滅ぼした少女の話
に違いない。
そうか、そうか、つまり「デデデデ」はセカイ系ってやつなんだな。
だとすれば、メタい視点では門出につけられた「悪魔」というあだ名も腑に落ちる。
門出がいなければ、あるいは凰蘭と出会っていなければ、東京は壊滅せずに済んだのだ。東京で大切な人を亡くした人からすれば、門出と凰蘭は悪魔以外の何者でもないだろう。
劇中ではさらっと流されていたが、恐らく凰蘭の記憶は戻っている。
小田原の早朝、大葉くんたちが砂浜で見つけた凰蘭はどう見ても墜落した宇宙船の前に居り、夜明け前に突然姿を消した理由もなんだか苦しいもので、「記憶は戻っていないことにしている」と解釈するのが妥当だろう。
つまり、東京に上がる火柱を眼前に、凰蘭は全ての事態は自分が引き起こしたということを知っていたのだ。自分が未来を変えたせいで家族や友達を大量に殺してしまった。
たった一人の友達を救おうとした少女が被るにはあまりにも重い罪で、しかもその罪を裁いてくれる人はおろか知っている人もいない。『イソベやん』はどう見ても『ドラえもん』リスペクトだが、これは藤子不二雄でも『どことなくなんとなく』とか『ある日…』みたいな、サイコな方の藤子不二雄なのでは…。
CVは幾多りらとあのちゃんのダブル主演で、挿入歌はでんぱ組.inc。バリバリ大衆向けの雰囲気で、まさかこんなとんでもねえ話を見せられようとは思いもしなかった。
…が、映画のラストは死んだと思われていた大葉くんの生還で〆られている。
これは、凰蘭の罪を知りうる唯一の人の生還を意味する。
全てを知っている大葉くんもその罪を断罪し、潔白にすることはできないが、これは凰蘭がこの先の未来を生きる上での希望と言っていいはずだ。
えらい長くなったので、何か気の利いたことを言って〆たいところだが何も思い浮かばん。
「語り得ないものについては、沈黙しなければならない」と昔の人も言っていた。
できないことはせず、このまま投げっぱなしで失礼させていただく。
哉
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?