クオリア主義という考え方

この頃、自分の中で「クオリア主義」と呼んでいる思想が芽生えつつある。これは、学術的に定義された考え方ではなく、個人的に子供のころから感じていたことに名前をつけたものだ。少しだけ言語化できそうだから説明を試みてみたい。

クオリア主義とは

クオリア主義とは「世の中に存在すると信じられている価値は実は幻想で、突き詰めて考えると価値は自分自身の意識の体験しかない」ということだ。

クオリア主義というのは、社会の中の多くの価値は本質的にはフィクションで幻想に過ぎないのだが、クオリアはリアルに存在し、突き詰めると、自分が生きてから死ぬまでの体験(クオリア)だけが真の価値だということになる。

宗教や政治的イデオロギー、会社への帰属意識や権威主義、肩書や学歴による自己肯定感などは、多くの人間にとって関心事であるけれど、これらはすべて集団的フィクションにすぎない。むしろ、そういった信念にこだわってしまうせいで人間は争ったり、醜い行動をとってしまう。これらの社会的フィクションは、人間の心の弱さに起源があり、そこから自由になりたいと思ってきた。

信念は幻想にすぎないという考え方を突き詰めると、多くのことには意味はなく、仮想的な関係性だけが存在するということになる。しかし、それでも自分が生きている間に感じることは、現実に存在し、心地よいことも苦しいことも、リアルな切実さをもっている。これはなぜか?

クオリアという言葉は、主観的な体験のことを指す。赤い夕日を見たときに、人間は脳が視覚情報を処理をして識別するだけではなく、同時に心の中では夕日を見ているという感覚クオリアが生じている。痛みを感じるときには、外界に痛みの実体があるわけではないにも関わらず、切実な痛みのクオリアが生じている。

社会における幻想の中には、クオリアがあることによって成立しているものがある。例えば、善と悪の概念も、宇宙の真理として存在しているものではないから幻想だと思うが、痛みや苦しみにクオリアが伴うことで、リアルにグラウンディングされる。他人の痛みがクオリアとして実在することを認めるから、他者を傷つけてはいけないという道徳が生まれるし、それが抽象化されて人権という考え方がでてくる。

さらにこの思想を推し進めると、クオリアすらも幻想だと考えることができる。もしかしたら、仏教などでは、そういった考えもあるのかもしれないし、そこは程度の問題ではあるのだが、プラクティカルには一線があると感じている。というのも、自分が見ているものや、感じている痛みを、思考だけ消し去ることはできないからだ。そのために、クオリア主義では、すべての社会における価値はフィクションであると相対化して無意味に陥るわけではない。価値は自分の中にあり、グラウンドされている。社会からは自由になれるが、与えられたクオリアは宿命となる。

クオリア主義による成功や拝金からの自由

このクオリア主義という考え方に気づくことで、安心感や充実感が得られたり、現代において惑わされずに生活する指針にもなるのではないかと思う。

貧富の差がますます拡大して、インターネットによって、他者との物質的豊かさの差異が明確に見えるようになり、経済的な成功に対する志向も強くなっている印象がある。イーロン・マスクやジェフ・ベゾスの資産などがニュースになると、同じ人間なのに想像を超える桁違いの富を蓄積している。そういうものを、目にする機会が増えた現代の情報環境は、多くの人に焦燥感を与えたり、日々の生活での満足度を下げている。

でも、クオリア主義を取り入れて、すべての価値は自分が主観的にどう感じるのかで決まるとという考え方をもつと、この不幸な思考から脱却できる。クオリア主義では、クオリアの下では人間は平等だ。お金は仮想的なものだから、貧富の差として数値的に差がついてしまうが、クオリアの方は、生物的な実体があり、1兆円分の快楽とか、1億人分の痛みとかを感じることはなく、人間にかなり平等に与えられている。これに救いを感じる。お金が1万倍あっても人生で体験できる主観的快楽のクオリアは1万倍にはならない。もちろん少しは美味しいものが食べられたりするだろうが、本当に大事なのは自分の感じているクオリアだけだ。

自分自身、自然とクオリア至上主義で生きてきているから、割と自分の感覚で価値を判断する癖がついている。一度、この考え方に馴染むと、自分の体験こそが価値であるため、冒険することや、人の目を無視してでも自分の好きなことに時間を費やすことの価値が高いと思うようになる。この考え方が根底にあるために、自分では気づかぬうちに、他者からみたら変な行動を取ってしまうこともあるかもしれない。

人生の目的はクオリア快楽の最大化か?

では、自分の生涯賃金ではなく、生涯クオリアを最大化する生き方が正解かというと、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。そうかもしれないという理由は、社会的な幻想やお金よりもクオリアの方が大事だと思うことで、心が自由になる。もし、幻想にとらわれてしまうことで、日々生きづらいことがあるのなら、そこから抜け出すことは良い。

そうではないかもしれない理由は、クオリアというのは時間的に蓄積することはできない。経験は思い出として残る部分もあるが、いつまでも昔食べて美味しかったものを思い出しても、お腹は空いてしまう。クオリアというのは、本質的にはその時々の一瞬しか存在しない。単純に人生における、クオリアによる快楽を最大化を目指すと、麻薬や脳への直接刺激などで主観的な快楽を最大にするのが良いのではないかという考えも生まれてくる。それが望ましいとは思えないが、強く否定するのも難しい。

クオリア主義というのは、人間の死生観に関わる。現代のサイエンスの世界像の中には価値というものはない。そこでは、生も死も無意味だが、クオリアがあることで、生きている瞬間瞬間に意味が与えられる。実は経験が存在することと生きていることは同一だ。

そう思うと、個人は自分がどう思いどう感じるかということを大切にして、それを社会の幻想よりも優先して考えて良いのではないかと思う。

最終的にはクオリアも根源的には複雑な脳の中の関係性によって規定されるフィクションに過ぎないはずなのだが、なぜそこまで実体を持つことになるのかということは、これからも研究していきたい。これを理解するための数学が欲しい。


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