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創業物語Ⅳ~学校教育での葛藤~

地域資源と学校教育
東京を後に

中小企業の仕事にわくわく感がとまらない日々を過ごしていましたしかし、そろそろ夫の転勤があるころ上の子の進学のことも気になりましたが、考えても仕方がない。新しい土地でも自分の社会的役割をみつければいいだけ。そして東京を離れることに。

条件つきで指名される働き方

東京から山口県に転勤。そこでも私は自分の社会的役割を常に意識することにしていました。
中小企業の面白さも忘れられなかったので、いつかその時の経験を別の何かに転用できないかと思っていました。そんな中、「今、学校の先生の補佐をしてくれる人が足りなくてとっても困っているんだってよ。」というママ友の話を耳にした後、即教育委員会の扉の前にいました。
しかも、(何かの手伝いができればという気持ちだったので)履歴書も職務経歴書も教員免許状ももたず。アポイントもとらずちょっと状況を教えていただく軽い気持ちでした。

ところが。。。
「小学校の教員免許を持っている人が訪ねてきた!」
「今すぐ学校に行って校長に会っていただけますか?」
「緊急事態なんです。明日から行けますね。」
と、私がいろいろたずねようと思っている間にあっという間に担任として赴任ということになりました。

異例の赴任

「学級担任の補佐をしてくれる先生が足りないみたい」そんなママ友の話を聞いて教育委員会を訪ねたのですが、
たまたま病休で代替の教員がいない、しかも特別支援学級なので誰でもいいわけではなく、障害に対しての知識や接した経験が必要。そんな状況にあったようです。
簡単な今までの職歴など面接があったのですが、応募書類も教員免許状も持たずに話を聞きに行ったのですが、「必要書類は赴任してからでも大丈夫。今、大変な状況に陥っている通常学校の特別支援クラスにぜひ担任として赴任してください。」そして学校名を聞いて愕然としました。
それは私の子どもが通っている小学校だったのです。

その夜、単身でドイツに出張に行っている夫に国際電話で報告。
私:「明日から○○小学校の特別支援学級の担任として赴任することになったよ。」
夫:「え?どうして???でもやりたいんでしょ。教員。できるだけのことをやってみたら」

勉強不足を痛感

赴任初日、校長室から職員室に入室して紹介された時、自分の子どもの担任の先生の驚いた顔は今でも忘れなれないワンシーンです。
知的障害のある子ども3名の担任として教科+自立活動+交流学級との学びが始まりました。私が子どものころ遊んでくれたお兄さんやお姉さんは中学生だったので、発達もまた違います。全学年の教科書の内容を把握しつつその子が自立して生活していくための学の計画は個々に違います。なので、通常学級よりも教材研究はとても多く、教科だけではない広範囲の学習が必要で個別の支援計画にそったまさに生きていく力をつける学習をおこなっていきます。

お金の使い方や、電車やバスの利用の仕方、挨拶や身の回りのこと(基本的生活習慣のトレーニング)、料理をすること、そして何より私が学びとして素晴らしいと思っていたことは、畑で農作物を育て、手入れをし、それを調理して先生方に食べていただくこと、学校内で商いを先生たちにお客様になってもらい価格設定や、商品のディスプレイも行っていました。

農作物を育てることは、自然を相手にするということにもなります。
「人間の力ではどうすることもできないこともある」でもそれを受け入れる力、
次に挑戦する力、自然への感謝の力、レジリエンスを育てるためにはとても効果のある学びです。

どのように彼らの人生を設計するのか、家族との連絡も密にとり、交流学級の担任や子どもたちがその子にどう関わるかで、彼らだけでなく交流学級の子どもたちのインクルーシブ教育につながります。

小さいころには、理不尽だけを感じていた自分でしたが、特別支援学級の担任として教育の視点から考えることができました。勉強不足も当然ありましたが、インクルーシブ教育はこれからは社会の中にも必要なことだということを確信する教員の再スタートでした。その後この学校から別の学校の通常学級の担任や学年主任を経験していくことになります。

地域資源を教育の現場へ

教科の勉強の中には、たくさんの「遊び」の要素がたくさんあります。例えば算数の足し算の勉強でも、ただ式を覚えて数を増やすだけではなく、5+2=7これを様々な日常生活のものに落とし込む。人だったりモノだったり、そうすれば集団や固まりのデザイン、重量感までもがイメージできる「遊び」。机に座ってただ計算をするだけでなく、体を動かしてもいい。リズムをとりながら5+2を身体で感じてもいい。友だちと5+2で何ができるのか考えてもいい。そうすると学びの幅が広がるとともに実体験として足し算が楽しい学びに変化する。

私は、東京で経験したことを学校の現場で変容させて使ってみようと思い始めました。
中学校との協働授業、アメリカのNPOとの関わり、地域の働き手との協働作業そして、洞爺湖サミットへの提言につながります。しかし、これができたのは、勤務校の先生方の温かい見守りやトップ同士がチャレンジを応援する環境をつくってくれたからです。

関わっている子どもの死

山口では3つの管区で教員として赴任していました。その当時は採用試験にチャレンジできる年齢も上限があり、すでに試験を受ける年齢ではなく、私はそのまま臨時採用ではありましたが、常勤で担任や学年主任などを経験していきます。途中、不慮の事故で他のクラスでしたが、関わっていた子どもが亡くなり、一時期ショック状態から眠れない日々を送ることになります。しかし、学校全体の教員のサポートと励ましの手紙、まさに良い環境で働かせてもらっていたのだと痛感しました。それから数か月後の新学期からは光管区から指名され、教員として初めての更新講習を受ける年代に選ばれ九州や関西といった大学で休みの日は更新講習と試験を受けていました。特に光市で勤務した中の1校では、素晴らしい校長との出会いがあり、私は多くのことにチャレンジすることになります。

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