見出し画像

1 穴に落ちる

 上空1万メートルから落下する夢を見た。
 上空の大気の冷たさか恐怖で肝を冷やしたか、ひどく寒気がして目が覚める。
 今日は随分と空が高い。と、ここで初めて僕自身が仰向けで寝転んでいることに気がつく。背中にはゴツゴツとしたアスファルトの感触。
 空は淀みない青だというのに僕の上にはシトシトと雨が降っている。すがすがしいほどのお天気雨だ。
 ゆっくりと上体を起きあげる。着ているシャツはぐっしょりと濡れ、体に張り付いていた。寒気の原因はこれか。

 ここはどこだろう? 

 なぜ自分が外で寝転んでいるのか思い出せない。それだけでなくここに来る以前の自分の記憶も定かではなかった。どこで暮らしていて、何をしていたのか。
 近くの水たまりに自分の顔を映して、映った顔を触ってみたりする。
 道路も同じように薄く水が張っていた。水面に映った街並みは緑豊かでとても美しかった。

 僕の隣で同じように洋服を濡らした女性がこちらを見ていた。水たまり越しに目が合う。彼女は美しかったが、その顔には憂いが色濃く浮かんでいる。彼女の世を儚んだような黒い瞳は吸い込まれそう。彼女は身に包んだワンピースと同じ色をした黒い髪を短く切りそろえている。年頃はおそらく僕と同じくらい。
 普段なら見知らぬ人に話しかけたりしない。でも、今日はこの町の不思議な空気を吸い込みすぎたせいか躊躇いなく話しかけることができた。
 誰かと話すことで一刻も早くこのフワフワとした記憶をハッキリさせたかった。

「はじめまして。ソラと言います」
「私はユキ」
「変なことを言うようだけど記憶が曖昧でよく思い出せないんだ。覚えているのは穴に落ちたということ。ここはどこなのかな?」
 そう。僕が確実に言えるのは穴に落ちてここにいるということ。
「私も自分のことがハッキリしないの。ただ私も穴に落ちた気がする。でも、同じ境遇の人がいてよかった」
 そう言って彼女はわずかに口角を上げる。ユキが笑ったのだと直感的に理解することができた。
 ひんやりとした雨は僕の赤らんだ頬を冷やしてくれる。
 雨が匂い立ち、ともすれば青臭いほどの植物の香りとちょっぴりのお日様の香りとが混じり合う。だけれど嫌な匂いではなかった。

「あっ。あの猫」
 ユキの指差す先、植え込みの下、見覚えのある黒猫が雨宿りをしている。
「あの猫を知っているの?」
「ええ。今思い出したのだけれど、私、あの黒猫を追いかけていてここにやって来たの」
「僕もなんだ。僕もあの猫を追いかけていた」
 ユキと顔を見合わせてどういうことかと不思議がる。
 黒猫はそんな人間たちの様子など梅雨知らず、一度体をブルルッと震わせたのち、軽快な足取りで歩き出した。
「行っちゃうよ。追いかけようか」
「そうね。他に当てがあるわけでもないし」
 僕らは黒猫のあとを尾行する。猫は濡れるのが嫌なのか器用に店先の屋根を利用して通りを抜けていく。一方、後ろを追いかける人間といえば雨のことなんぞおかまいなしに泥を跳ね上げて走る。
 これじゃ猫の方がよっぽど優雅だ。
 時には傘をさす人の足元にすり寄って歩みを進める彼(彼女?)。

 一軒の家の前で立ち止まったかと思うと、慣れた脚つきで門をわずかに開けてスルリと中へ入っていった。
「まあ、帰ってきたのね。今日はどこまで遊びにいっていたの?」
 家主であろうおばあさんに抱きかかえられた黒猫は僕らの方を見て「ニャオ」と鳴いた。
「あら? あなたたちは……。どうしたの? そんなところに立っていないで中に入りなさいな。濡れたままでいたら風邪引いちゃうでしょう」
 おばあさんの勢いに負けた僕らはお言葉に甘えることにした。
 通された部屋には大きな窓。そこから取り込まれた光で眩しいほどに明るかった。おばあさんに問答無用で座らされたソファは濡れ鼠の僕たちが座るのがはばかられるような高価なもの。ふかふかなのにお尻がムズムズする。

「ようこそ。私は小百合。みんなからはリリィと呼ばれているわ」
 リリィさんは「リリー」と語尾を伸ばさずに「リリィ」とィの字を小さく区切って発音した。
「僕はソラです」
「私はユキです」
「よろしくね。2人ともテュケのあとをついてここまでやって来たのでしょう」
「テュケというのはあの子の名前ね」とドーナツ型のクッションにすっぽりと収まって眠る猫を指して言う。
「あの、リリィさん。ここはどこですか? 私たちどうやってここに来たのか覚えていないんです」
「ここはマイナス617番街よ」
 「マイナス」617番街とは。マイナスがつく住所なんて聞いたことがない。
「ここは何かに上手くいかずにつまずいてしまった人たち、そして立ち直るのが少しだけ苦手な人が集まる町」
 そう言われるとここに来る前に、何かとても悲しいことがあったような気がしてくる。隣に座るユキは相変わらず無表情で内心を伺い知ることはできない。ユキも何かにつまずくようなことがあってこの町に来たのだろうか。

「リリィさんも何か上手くいかないことがあったのですか?」
 僕の目にはリリィさんは前を向いてまっすぐ立っているように見える。とても眩しくて正視できない。僕はというと俯いて猫背、ふらふら。まるで軟体生物。それもこれも何か今まで大切にしていた拠り所を失ってしまったからなのだろうか。
「もちろん。私だって例外なく傷を抱えているわ。でも大丈夫。この町に優しく降り注ぐお天気雨を浴びてその傷を癒すの。少し不思議に思うこともあると思うけれど、じきに慣れるわ」
 僕らの反応を楽しむように微笑むリリィさん。

「帰ることはできるんですか?」
 恐る恐るといった様子でユキが口を開く。
 確かに曖昧ではあるが元の世界にいた記憶があるのだから帰る方法を尋ねるのも必然だった。
「ふふふ。安心して。帰ることはできるから。でも、少し時間がかかるかしら。記憶のすべてを思い出せばきっと帰れるでしょう」
「すぐには帰れないんですね」
 僕自身、帰りたいのか、帰りたくないのか。あやふやな記憶のままではどちらにしろ帰れない。
 僕の頭はもうこれ以上こんがらがったら解くほどができないほどこんがらがっていた。もう思考回路はぐちゃぐちゃ。ショート寸前。
 今の状況を整理したいけれど関係ないことまで浮かんでくる。
 知らない町。洗濯物干しっぱなしだっけ? 傷を癒す雨。虹の色の順番。ここに来る途中で見かけた何屋かわからない看板。帰宅不可能。……。
 知らない人に会ってばかりで緊張しっぱなしなんです。もう家に帰って自分の好きな本を読んで、お気に入りの音楽を聴いていたい。何が言いたいのかというと、つまりは僕を一人にさせて。

「この町の人は役割を持たなければならない決まりなの」
 熱い紅茶を蒸らしたティーカップに注ぎながらリリィさんが言った。
 役割、というものはよくわからないが、この町で根無し草の僕とユキはもう流れに身をまかせて、リリィさんの話を黙って聞くことしかできなかった。
「それではソラくんを『短編家』、ユキちゃんを『幸運屋』に任命します」
 リリィさんの言う「たんぺんか」の意味がわからずに、脳内で変換させることすらままならない。ちんぷんかんぷんの僕の頭上で未知のひらがながぷかぷかと宙に漂う。それはユキにしても同じことだったと思う。
 いくつものはてなを浮かべた僕らを尻目に、謎の役割を任命し終えたリリィさんは「おいおい説明するわね」とだけ言って、話はおしまいと言わんばかりにソファから立ち上がる。

 リリィさんは古いアカシアの机の右側の引き出しを開けて2つの鍵を取り出した。二つの鍵にはそれぞれ「205」「608」と数字の入ったタグが付けられている。
「どちらか好きな方を選んでちょうだいな。あなたたちが住むアパートの鍵よ。住むところがないんじゃ、大変でしょう?」
 僕はなぜだか迷わず「205」の方を手にした。初めからそう決まっていたかのようにユキの手には「608」の鍵が握られていた。

 *

 案内されたアパートは少なくとも築50年は経っていそう。外壁はヒビ割れて雨が染み込んでいく。手すりを越えた植物が廊下にまで勢力を拡大させていた。
 リリィさんに案内されてわかったことだが、僕とユキはお隣さんだった。
 このアパートの一風変わったところは割り振られた部屋番号と部屋の扉に統一性がないということ。僕の部屋、205号室が傷みの激しい朱色の木製扉なら、隣のユキの608号室は細かい傷のついた銀の扉。他にも107号室は真鍮製だし、1203号室はこのアパートには不釣り合いなほど頑強なドア。まるで別々のアパートをツギハギにしたよう。

 貰った鍵で入った部屋は今朝まで住人がいたのかと思うほど、埃一つなく清潔さが保たれていた。家具は小さなテーブルとベッドだけの殺風景な部屋。
 ひとりぼっちの静かな部屋の窓ガラスに雨がコツコツと当たる音だけが響く。

 知らない町の知らない部屋のベッドに寝転がり天井を見つめる。首筋がぞわぞわした。借りてきた猫状態というか、動物園入園初日というか。とにかくこのまま一人でいたら頭がおかしくなりそうだった。
 助けを求めるように隣のユキの部屋を訪れる。

 ユキの部屋の間取りは扉と同じように僕の部屋とは全く違っていた。
 優しく甘い匂いのする淡い色合いの空間。
 僕らは今日のこと、これからのことを話し合った。思い出したい過去のこと——僕らがどこの何者であるかということ——については依然手がかりの一つもなかった。
「僕らはこの街で暮らしていかなくちゃいけないわけだけど、何だか変な気分だ。自分のことがわからないだけでこんなに不安になるなんて」
「私たち元々楽天家ではないのかもね。物事を深刻にとらえがち。でもこの町に来てから気持ちがずっと軽やかなの。この雨のおかげかしら。ソラがいてくれて一人じゃないっていうのも大きいと思う」
「そうだね。ユキと出会わずに一人寄る辺もなく、さまようことになっていたらと想像しただけでゾッとするよ」
「それでどう? 何か思い出したことはある?」
「今のところは何も。さしあたり記憶を取り戻すこと。これを目標に思い出したことはどんなに小さなことでも報告しあおう。思い出すきっかけになるかもしれない。僕らは、その、仲間なわけだから」
「わかった。私たちの間に隠し事はなしでいきましょう。約束」
 そう言って僕らは指切りをした。
 指切りをするとき、とても緊張したことは内緒だ。
 僕らは記憶に穴を開けたまま明日からも生きていかなければならない。
 太陽が沈み、もはやお天気雨とは呼べなくなったというのに雨は窓の外で降り続けていた。


画像1

                     次の話 タヌキのスカッシュ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?