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緑玉で君を想い眠る⑨

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 帰宅した時にはすっかり日が暮れていた。冬が近づいているはずなのに、年々気温が下がる時期が遅くなっている気がする。日中の気温よりも、日照時間が短くなっていることの方が、冬が近づいていることを実感する。室内には電気が点いていた。珍しく、社長は早く帰宅できたようだ。リビングに行くと、エプロンをして夕食の支度をしている彼女がいた。

「おかえり。体調大丈夫なの? 病院行けた?」

「混んでたので、時間かかっちゃいました」

 輝一郎さんと会っていたことは、彼女には内緒だ。

 彼は叶羽さんに対して少し過保護なところがある。高校生の時に、体育の授業や体育祭を見学するよう言っていたように。心配掛けたくないから、と叶羽さんから脅迫状の件は、しばらく伏せておきたいと言われている。

 しかし、輝一郎さんは十分大人だ。それは彼が結婚していない理由を聞いた時から知っている。今日だって、叶羽さんには内緒で、という約束を、きちんと守ってくれている。もう保護者だった彼の手を離れて大人になった彼女の人生だ。彼女から告げられるまでは、知らないフリをしてくれるだろう。

 彼は、本当に愛情深い人だ。彼女の両親が亡くなってから社会人になるまでの間は、義眼の検査の受診料、作り直しの代金は、全て彼が負担してくれたという。片目の失明は、障がい認定されず、美容目的として扱われるらしい。だから保険適用されない。作り直しとなれば、十万は優に超える。それを、輝一郎さんは惜しみなく支払ってくれていたそうだ。

 そんな彼に心配掛けたくない、という気持ちは、痛いほどわかる。

「薬は?」

「疲れていただけなのか、持っていた市販薬飲んだら順番待ってる間に良くなってきたので、もらっていません」

 そもそも体調不良自体が嘘なのだから、薬をもらう必要もない。

「ご飯は食べれそう? ゼリーとかプリンがよかったら買うよ? 雑炊とかお粥がよかったら、ご飯炊けたら作るよ」

 彼女は、歳下だからと、ボクを甘やかしている気がする。
 こんな時に、ふと思ってしまう。
 歳上の守さんには、彼女は甘えていたのだろうか、と。

「もうすっかり元気なので、普通に食べます」

 夕食の支度を始めていた叶羽さんの手伝いをするべく、ボクも手洗いうがいを済ませてから、エプロンを着けてキッチンに立つ。

「休んでてよ」

「待ち時間と電車の中で寝たので、少し体を動かしたい気分なんです」

 体調不良で誤魔化すのは、次からやめよう。叶羽さんは心配そうに、「そう?」と聞きながら、ボクを見守る。

「主菜作りますね」

 味噌汁を作っていた彼女を見て言った。総菜は休日に作り置きを用意しているから、平日に調理するのは主菜と汁物だ。

 お嬢様だった頃の叶羽さんは毎日フレンチでも食べていたのかと思っていたし、箸とお茶碗なんて知らなかったのではないかと思っていた。それを聞いた彼女は、涙が出るほど笑っていた。生活レベルは終始一般人のボクより遥かに高くても、全部が全部かけ離れていたわけではないらしい。彼女は桜ノ宮生の中でも素朴な家庭だと言っていたし、食の好みは似通っていた。

「ごめんね、ありがとう」

 冷蔵庫の中身を見て、残っている食材を確認する。

「鶏使っちゃいますね」

「あ、豆腐も出しておいて」

「ネギと油揚げは、この前切って冷凍しておいたものがあるので、それ使って大丈夫ですよ」

「了解」

 明日も彼女は、代表取締役社長として忙しい日々を送る。ボクは製品開発員として、目の前の研究に取り組む。

 叶羽さんの方が、心身共に疲れる立場だ。
 家にいる時くらい、ゆっくりしてほしい。だから、家事は全部ボクがすると言ったのに。

「二人いるんだから、二人でやった方が早いよ」という彼女の言葉に、甘えさせてもらっている。

 でも、こうやって一緒の時間を過ごす方法もあったのか、とボクは学んだ。おばあちゃんがまだ元気だった時に我儘を言って、一緒にやりたい、と言っておけばよかったかもしれない。そうしたら、もっと話ができる時間があったかもしれないのに。なんて考えが、頭をよぎる。

 そのまま二人で食事の支度をしていると、インターホンが鳴った。

「ボク、見てきますね」

 ありがとう、という彼女の声を聞きながら、モニターを確認しに行った。
 配達員ではない。女性だ。華やかな顔を強調するような、色鮮やかな服を着ている。ボクが好きになれない、むしろ嫌いな……。

「……叶羽さーん。すみません、どうしましょう……」

 こんなことで彼女の手を煩わせたくないけれど、ボク一人で判断できる相手でもない。何かを察したのか、それともモニターが少し見えたのか、コンロの火を全て消した彼女が近付いてくる。ボクの代わりに通話ボタンを押した彼女は言った。

「……どうしたの? 夢香」

「外で話させる気?」

「……待ってて」

 エプロンを外した彼女からそれを受け取る。そのまま玄関に向かう後ろ姿を、落ち着かない気持ちで見た。彼女は玄関で靴を履く前に、振り向いて言った。

「ごめん、扉、閉めてて」

 玄関に続く廊下とリビングを隔てる扉のことだ。叶羽さんだって、嫌な相手に部屋を……プライベートを見られたくないのは当然だ。彼女と二人きりにさせるのも不安だが、言われた通りに扉を閉める。彼女の姿が見えなくなる。換気扇を中から弱の設定に変えて、扉に耳を当てて、二人の会話を盗み聞けるか試みる。玄関扉が開く音がした。

「遅い!」

「……どうしたの? こんな時間に」

 玄関扉が閉まる音が聞こえた。声は、室内で響く。

「アンタさぁ、マジで守に何言ったわけ?」

 不愉快な声と足音が近付いてくる。叶羽さんの「ちょっと!」という声がそれらの音よりも少し遠くから聞こえる。マジか、と思っている間に、バンという音が聞こえる。それと同時に、頭の左側に痛みが走る。

「は……? あぁ、カエル君、いたの。てか盗み聞ぎ? 低俗な奴ね」

 勝手に部屋の中に入って、開けた扉を人にぶつけたのだから、まずそれらに関して謝罪をしてほしいのだが。

 扉が当たった左側頭部を押さえて睨みつけてみる。が、マウント女は自分の行いは振り返らず、そのままソファーにドカリと腰掛けた。足を組んで舐め回すように室内を見渡す。

「こんな団地のマンションに住むとか……。シロノ化粧品の社長さんは庶民臭が消えないわね。あ、シロノ化粧品の社長程度じゃ、そんなにいいトコに住めないか」

 そう言って甲をかざすようにして、左手を前に突き出した。新しいネイルにしたばかりなのだろうか。光に当てて状態を確認するように、手を少しじりながら眺めている。

 パタパタと足音が聞こえてきた。叶羽さんが申し訳なさそうな顔をして、そのまま無言でボクに向かって両手を合わせた。声は発さずに口の動きだけで「ごめん」を言われる。彼女は何一つ、悪い事なんてしていないのに。ボクは小さく首を横に振った。

 叶羽さんはボクの横を通り過ぎて、マウント女に近付く。

「こんな時間に来られるのは、正直迷惑なんだけど」

「迷惑なのはこっちよ。アンタさぁ、昨日、守に何言ったの?」

 昨日、叶羽さんにかかってきた電話でも、彼女は同じことを言っていた。物凄い剣幕で。

「……ちょっと、確認したいことがあっただけ」

「だから、その内容を聞いてんの!」

 肘掛けを拳で殴りつけながら言う。次は、テーブルを蹴り飛ばされるかもしれない。
 叶羽さんもそう感じたのか、躊躇いがちに話し始めた。

「…………家に脅迫状が届いたから、これを送ったのは守なのかって聞いただけ」

「アンタが脅迫されたぁ?」

 途端に小馬鹿にするような笑みを浮かべる。

「どんな内容なの? 見せてみなさいよ」

 向けられた右手は、爪先までピンと伸びている。読む権利なんて無いのに、強制力があった。

 叶羽さんの肩が、呼吸とともに下がった。見せた方が、早くこの人を帰らせることができると判断したのだろう。キャビネットから例の脅迫状を出して、差し出した。

「何コレ。キモいオジサンが書いた文章丸出しって感じ」

 見下すように笑いながら文面をひとしきり眺めていた。センスの欠片もないわね、そう言いながら紙を封筒に戻して、受け取った時と同じように、指先まで伸びた手を向けた。無言で、もういいからしまえ、と主張していた。

 叶羽さんは脅迫状を受け取って言う。

「もういいでしょ。夕食時なんだから、帰ってよ」

「アンタ、守がまだアンタに未練があるって思ってたの?」

 そう言いながらマウント女は、背もたれに付けていた上半身を、前のめりに倒した。右肘は足を組んだ左膝に乗せて頬杖を付き、左膝に沿えるように左手を置いた。

 そこでようやく気付いた。彼女の左手の薬指に、結婚指輪だけでなく、婚約指輪まで着けられていることに。

 四角い大粒のダイヤモンドが付いた指輪は、旧友――という間柄とも言い難いが――の家を訪れるにしては、華やか過ぎる。

 彼女のネイルは、ダイヤモンドの輝きを邪魔しない、シンプルな色合いになっていた。以前見た時は、その顔立ちに似合う派手な柄だったのに。

 今日こうして叶羽さんに見せつけるために、わざわざ準備してきたのだろう。昨日、叶羽さんに電話した時から、こうすることを考えていたに違いない。本当に、性格の悪い人だ。

「未練じゃなくて、怨まれてると思ってるから」

「アンタの所為で守、いろんな人から言われ放題だったもんねぇ」

「用事はもう済みましたよね? お帰りいただけますか?」

 叶羽さんを背中に隠すようにして、マウント女の前に立つ。

 しかしマウント女はボクが見えていないように、叶羽さんに語り掛け続ける。

「カエル君は知ってんのぉ? 中等部の時、アンタが誘拐されてレイプされたって」

「事実じゃないことまでベラベラ話さないでもらえますか?」

「ちゃんと話してたんだ。じゃ、守とのことも知ってんのね。気を付けなさいよぉ、カエル君。このコといると、事件に巻き込まれてあらぬ噂が立つから」

 キャハキャハと耳障りな笑い声が響いた。立ち上がって玄関の方へ歩き出したと思ったら、ボクの背にいた叶羽さんの目の前に来て、

「ま、犯人にまだ付き纏われてるみたいだし、アンタも気を付けなさい」

 憐れむような笑みを向けて、リビングから出て行った。開けっ放しの扉から、玄関で靴を履いている姿が見える。早く出ていけ。その念が通じたのか、彼女は一度振り向いた。

「ちょっと、お客様がお帰りよ。そこまでお見送りしなさいよ。外は暗くなってるのよ」

 どの口が――。思わずそう言いかけた時、視界に叶羽さんの顔が映る。

 先程よりも申し訳なさそうに顔を歪めて、顔の前で両手を合わせながら、小声で「ちょっと行って来る」と言う。彼女と同じくらいの音量で返す。

「暗くなってますし、ボクも行きます。てか、アイツ、迎え呼べば誰か来てくれますよね。わざわざ叶羽さんが行くことないですよ」

「由貴は夕食の続き、やってて?」

 まだ一品も完成していないコンロに視線を向ける。換気扇の弱々しい音が、虚しく鳴っている。

「……脅迫状のこともありますから、スマホは絶対持って行ってくださいね。防犯ブザーありますか? 怪しい気配を感じたら連絡ください。すぐに行きますから。一食くらいコンビニでお弁当買っても、バチ当たりませんからね」

 ボクの言葉を聞いた叶羽さんは、おかしそうに笑った。

「ありがとう」

 玄関から「早くしなさいよ!」と不機嫌そうな声が聞こえる。彼女はボクにだけわかるよう、小さく手を振りながら、口の動きだけで「行ってきます」を言って、扉を閉めて玄関に向かう。

 マウント女がグチグチと何か文句を言っているのが聞こえる。叶羽さんがそれに短く返答する声も聞こえる。玄関の、少し重い扉が開く音がして、閉まると同時に二人の声が消える。最後にガチャリと、鍵が閉まる音がした。

 その音が、なんだか不気味に聞こえた。
 何の変哲もない平日なのに。

 彼女が無事に帰ってくることを、願わずにはいられなかった。

   

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