緑玉で君を想い眠る⑧
3
叶羽さんは、愛されて育ってきた。
彼女と一緒にいると、言動の端々からそれらがよく伝わってくる。
不躾に声を掛けてきた後輩なんて、背を向けて無視したらいいのに。
デリカシー無く目のことを聞いてくる人なんて、迷惑そうに適当にあしらえばいいのに。
彼女はそうはしなかった。
丁寧に、嫌な顔一つせず、冷静に、微笑さえ浮かべながら、応対した。
器の大きさ、大人の余裕、人間力の高さ……。そんな言葉で表現されるであろう彼女の振る舞いに、品性を感じた。それと同時に、彼女は、そういう大人を見て育ってきて、大らかな愛に触れて生きてきたのだとも思った。
ボクも、愛されて育ってきた。
学校から帰ったら、おじいちゃんとおばあちゃんはいつも笑顔で「おかえり」と言ってくれた。晩ご飯はできたてのホカホカ。お風呂だっていれたてのポカポカ。お弁当はいつだって彩りも栄養バランスも整っていた。授業参観は二人とも来てくれていたし、クリスマスは毎年サンタも来てくれていた。
小学二年生の時、夏休みでもないのに母に手を引かれておじいちゃんとおばあちゃんの家に連れてこられて、それからずっとそこで暮らしてきた。ボク達が家に着いた時には二人は留守で、「お母さんは買い物に行って来るから、おじいちゃんとおばあちゃんが帰って来るまで待っててね」と言って、母は出掛けて行った。母はそれっきり、帰って来なかった。
だから母親の顔はよく覚えていない。父親らしき人の記憶もあるけれど、今思えば、その人は本当に父親だったのかもわからない。
捨てられたというのが正しいのかもしれないけれど、母はボクを家に置き去りにしたりせず、おじいちゃんとおばあちゃんの家に連れて行ってくれた。もしかしたら母は、不治の病で長く生きられなかったのかもしれない。父親は他界していて、今後の生活を相談するために、家を訪ねていた役人か担当医に相談していたのかもしれない。母はボクをおじいちゃんとおばあちゃんに託して、父親だと思っていた人は相談相手だった。そう思うことにした。
だから両親と過ごせなかったことをコンプレックスに思っていないし、愛されてきた人を妬む気持ちも無い。おじいちゃんとおばあちゃんから充分愛されてきたのだから。
顔もよく覚えていない両親のことを怨んだり、会いたいと願うことも無い。
血が繋がっていようが、いまいが、相手とどのくらいの密度の時間を過ごして、自分が相手をどう思っているのか。
家族だとか、友達だとか、世間一般にわかりやすい言葉で通じる肩書よりも、ボクは、そういう心の繋がりの方が、重要だと思う。
だから、中学生になってすぐ、おじいちゃんが亡くなってしまってから、何か大切な感情を失ってしまったのだと思う。
どんなに強く想っても、最後にはなにもかも失くなってしまう。
ならば、ほどよく手を抜いて、そこそこの距離感で物事に関わるのが一番だ。
本気になって、心の底から何かを想っても、最後には全部失くなる。
いちいち心を乱されて、突き落とされて、地を這うような思いをするくらいなら、持続可能な精神状態を保っていればいい。
そうやって過ごすようになった。
そんなボクが、誰かに本気になるなんて。そんな予定、無かったのに。
だけど叶羽さんと出逢って、おじいちゃんとおばあちゃんがいつも穏やかな笑みを向けてくれていた理由が、わかった気がした。
彼女と一緒に居たら、ボクもあんな風に笑える気がした。
表情の作り方さえ、省エネを通り越して無可動で生きてきたけれど。彼女といたら、失うことの恐怖さえも、いつか愛しさに変わる気がした。
勿論、仕事に打ち込み過ぎてすぐに痩せてしまう頑張り屋なところも、上手くいかないことだらけで家に帰った途端泣く弱いところも、それでも決して立ち止まったりはしない力強さも、全て好きだ。
けれどそうやって、理屈だとか論理だとかで説明する彼女の「何か」で一緒に居る理由を語るよりも、そんな彼女と一緒に未来を生きている想像が、あまりにも自然にできてしまったから。だから、こういう今があるのだと思っている。
ボクも無事に桜ノ宮大に特待生で入学してから、ボク達は付き合い始めた。その時、ボクのどこを好きになったのか、聞いたことがある。彼女はこう答えた。
「絶対に私の手を離さないで、握り返してくれるところ」
現実にしっかり足をつけている彼女から出たとは思えないような言葉だった。
叶羽さんも、そんな、見た目だけキラキラした安っぽいデコレーションでコーティングされたようなものに、憧れるのだろうか。
そう思ったけれど、覇気が無くて、無気力で、男らしくも無いこんな自分でも、好きになってもらえたことが嬉しかった。
桜ノ宮大で、霧島守と会うまでは。
学内のメイン通りを歩いていた時、叶羽さんは、すぐ近くを通りかかった、ボクよりも背が低い細身の男性に、「おはよう。元気?」と躊躇いがちに訊ねた。が、反応は無い。その男性は代わりに、ただ彼女を見つめていた。氷のように冷たい眼差しで。
彼と一緒に歩いていた、彼と同級生の花園栄華という女性が、叶羽さんを見ながら言った。
「私は森城さんの方が好きだったわ」
それだけ言って花園さんは先に行ってしまった。彼女が去るのを待っていたかのように、玉井夢香という女性がやって来た。
「アンタに話す言葉はないみたい」
どこか小馬鹿にするような微笑みに、初対面でも少しイラッとした。
「行きましょう、守」
そう言って、なおも叶羽さんに冷たい眼差しを向けていた男性の腕を取り、叶羽さんに向かって勝ち誇った笑みを向けて、去って行った。
その時に、あの男性が、中学生の頃付き合っていた彼氏だと説明された。
叶羽さんから聞いていた人物像と、まるで違っていて、頭の中ですぐに結び付かなかった。
代わりに、桜ノ宮学園に進学しようとしていたのも、ボクを好きになってくれたのも、全部、彼の影を追いかけていたからではないかと思ってしまった。
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