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緋色の花㊱

     

 テラスにある机と椅子には誰も腰掛けておらず、闇夜にただポツリポツリと据え置かれている。椅子に腰掛けて室内と繋がる窓を見れば、昼間の明るさと見紛う黄水晶きすいしょうの光が漏れていた。その光を浴びずに闇の中に潜むあたし達は、出会った時のように、真っ黒だ。
「なぁ、紗羅に聞くモンじゃないってわかってるんだけど、」
 そう切り出して、あたしが視線を向けたのを確認して、蓮は言った。
「紗羅ならさ、珠莉の気持ち、わかるか?」
「……それは、どの部分に対して?」
「考えちまうんだよな。珠莉が知られたくなかったとしても、どうして、助けてって言ってもらえなかったのか」
 珠莉さんの月命日には必ず花を手向けに行くほど、彼は珠莉さんを今でも大切に想っている。
 こんなにも想っていたのに肝心な時に頼ってもらえなかった経験が、深い傷となっている。
「あたしは珠莉さんじゃないから、同じ被害に遭っていても、珠莉さんの痛みを理解することはできない。あたしは恋人なんていなかったし」
 あたしと珠莉さんとでは、最初に被害に遭った年齢も、期間も、相手との関係も、状況も、何もかもが違う。だから、彼女の苦しみを正しくは理解できない。
「でもね、自分が支配者であるはずの自分の体を好き勝手されて、ましてや性的に支配されるなんて、屈辱だよ。加害者からも、関係の無い他人からも、世間からも、『軽んじていい存在』って『烙印スティグマ』を押される。そんな風に思いたくないのに、自分自身も自分を軽んじるようになっちゃうの。だから、知られたくなかったんだと思う」
「でも、被害者は悪くない。悪くないんだから、言って欲しかった」
「被害者は悪くないよ。でも、そう感じさせないのが性暴力なの。自分に落ち度があったからじゃないか、自分にも責任があるんじゃないか、って思わされる。もしもこうしていたら、って変えられない過去ばかり考えて、悔やんで、自分を責めちゃうの」
 きっと、蓮には一生わからない。あたし達は、男と女。絶望的に、この差は埋まらない。想像して寄り添うことはできても、齟齬は生まれる。
 嫌がらないから、抵抗しないから、暴力を振るったわけでも怒鳴ったわけでもないのだから、同意だった。そんな言葉がいつまでまかり通ってしまうのだろう。
 怖くて抵抗できない、嫌われたくないから抵抗できない、立場が上の人だから抵抗できない。
 その現実を、「力」という武器を生まれながらにして、物理的にも、社会的にも与えられている男には、想像力を最大限に働かせて寄り添おうとしなければ、一ミリもわからない。
 いつだって、女の方が背負うリスクは大きい。
 子供ができた時だって、男は逃げられても、女はその後も独りで背負わなければならない。
 堕胎するにもお金も心身への負担もかかる。それを嘆くと、避妊をしなかったことやアフターピルを処方してもらわなかったことを責められる。避妊は女だけの義務ではない。アフターピルも、緊急事態なのだから薬局で誰でもすぐに買えるようにするべきなのに。
 子供は女だけでできるものじゃない。男が必要だ。
 なのに、一連のことに責任を負わされるのは、いつも女だ。女に押し付けられる。何かあろうものなら、女が責められる。
 当事者意識が持てない、自分だけいつまでも安全圏にいる男は、無責任だ。
「被害を訴え出ても、必ず『犯罪』として扱ってもらえるとは限らないんだよ。被害届を受理されなかったら『認知件数』にすら入らないし、受理されても事件性無しって判断されたら『検挙件数』に入らない。起訴されても嫌疑不十分になれば不起訴になる。珠莉さんが被害を打ち明けたところで、本当にそれは、犯罪として扱われた?」
 蓮は俯いて黙り込む。
「加害者には罰が下される。でも、それはあくまで『加害者が更生して未来を生きるため』であって、被害者の苦しみが反映されてはいない。被害者あたしたちは一生被害の苦しみを背負って生きるのに、数年の懲役で罪は償ったなんて言われても、納得できない。加害者の不幸な生い立ちや年齢を考慮するのも意味がわからない。どんなに不幸でも、他の人を傷付けていい理由にはならない。犯した罪がバレる恐怖を背負わないといけないなんて言われても、そんなの自業自得」
 ずっと秘めていた非情さを、露にする。
「あたしは加害者の更生なんて望んでない。更生して幸せな未来を歩んだりしてほしくない。ただ一生苦しんで、苦しみ抜いて、生きていたくないほど苦しんで、死んでほしい」
 闇夜に沈黙が広がる。
 冬の冷たい風が頬を撫でる。
 黄水晶に輝く室内とは、酷く温度差があった。
「……ごめんな。思い出したくないこと思い出させて」
「今日誘ったのって、コレ聞くため?」
「違う」
 弱々しいが、即答だった。
「ごめん、でも、聞きたかったんだ」
 蓮は肘をついて両手を組んで、手の甲に頭を乗せる態勢を取る。そのまま一分ほど、動かなかった。途中何度か鼻を啜る音が聞こえた。顔を上げた蓮は、再び質問をする。
「紗羅は、これから先、守ってくれる人がいたら、安心して過ごせるか?」
「法的に、って意味なら同意するよ。被害者目線の法律ができてほしい。他の人の人権を奪った奴の人権を、どうして守るの? 報復されないように被害者を守ってよ。被害者を責める人を黙らせてよ。被害者が立ち直れるように支援してよ。被害に遭って傷物になったからって、ゴミを捨てるみたいに放置しないでよ」
 目が熱くなるのを感じた。それを忘れるために、論点を変える。
「でも、騎士ナイトって意味なら、違うかな。これから生きていく中で、あれ以上の苦しみは無いと思う。けど、傷付く時はくる。誰かと一緒に居ようが、それは変わらない。だから、何があろうと自分一人で立っていられるだけの強さは、必要なの。近くで支えたり味方になってくれる人がいるのは嬉しい。でも、守ってもらうばかりじゃ、駄目なの」
 今度は、「被害に遭った」と口にする強さを持ちたい。
 被害者あたしが口を閉ざしたら、加害者アイツらの罪は誰の目にも晒されない。全て無かったことになる。無かったことになって、文字通り野放しにされる。
 全ての被害者にその強さを持てとは言わない。
 被害を言う言わないは、最後はその人次第。
 口にすること自体に負担があるのだから。
 ただ、あたしは、言わないことであたし自身も過ちを犯してしまったから。
 もう、一人で抱え込みたくない。自分から、「助けて」の合図を、出したい。
「……なぁ、最後にもう一つ、聞いていいか?」
 もう蓮には何を話してもいい。
 あたしにとってスピークアウトは、内に堆積していた辛さと苦しさを口にして、自分自身と改めて向き合う行為となっていた。
 短く了承の返事をする。
「紗羅が自殺を選ばなかったのは、どうしてなんだ?」
「生きたかったから」
 あたしの答えは、二人しかいない闇の中で、時間が止まったように響いた。
「父親に犯されて母親に敵視されて生みたくない子供まで身籠って、絶望しかなかったけど、それでも生きたかった。死んだら、もうどうしようもできないんだよ。哀れな女が死んだとか、馬鹿な女の自業自得だとか、外野に好き勝手なこと、言わせたくなかった。生きて、いつかあたしなりの、幸せってやつを、掴みたかった」
 そこで会話は途切れた。冷たい空気が目元の熱を冷まそうとする。
 蓮は机の上を見つめて静止している。逡巡しているように見えた。
 あたし達以外に人がいないはずのこの場に、足音が微かに聞こえた。音のする方を見ると、グレーのコートを着た司が歩み寄って来ていた。室内の黄水晶の灯りを背にしている彼は、不覚にも綺麗だった。
「すみません、お二人で居るところ申し訳ないのですが、蓮さん、今からお話できますか? 僕、終わったら片付けがあるので」
 申し訳なさそうに眉の端を下げながら微笑を浮かべている。いつの日か見た妖しい笑みは一切無い。
「ツリーの点灯までには終われるようにしますから」
 デート中の恋人にでも話し掛けているように言う。
「紗羅は居なくていいんだよな?」
「勿論です。むしろ、僕達二人だけの方がいいと思います」
 それを聞いて蓮は、悪い、と断りを入れて、先に室内に戻るように言った。
「一人で待つのが気まずかったら、僕の友達が入って右の壁際に居ると思うよ。さっき僕といた瑠依も一緒だから、行けばわかるよ」
 司はそう言って、黄水晶色の室内を指さした。
 蓮は立ち上がったあたしの背を軽く押すようにして、この場を去るよう促した。
 光に導かれるように、足を一歩ずつ進める。後ろから視線を感じて、室内に入る一歩手前で、振り向いた。司はいつも通りの笑顔で、蓮は無表情でこちらを見ていた。あたしの姿が見えなくなるまで、このまま本題に入らないつもりなのだろう。この距離ではもう会話なんて聞こえないのに。仕方がなく、そのまま足を踏み入れた。

   

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