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緋色の花㉟

     
 あたしの右手を下から掬うように左手で握り、背中を支えるように蓮の右手が添えられる。
「左手は俺の腕か肩に置いて」
 自然と距離が近くなった蓮を、思わずそのまま見つめてしまっていた。
 周囲をチラリと見て、女子の左手の位置を確認し、真似をする。
「難しいこと考えなくていいから。リラックスして、あとは俺に任せといて」
 音楽に合わせて三拍子のリズムを刻み、蓮に流されるままにステップを踏む。端から見たら、あたしは誘導されるままに足を踏み出していて、ぎこちなさで溢れているだろう。けれど、見た目にまで意識を回す余裕なんて無かった。
 少し視線を上に向けたらすぐそこに蓮の顔がある。右手はしっかりと握られ、抱き締められていると錯覚するくらい、背中をホールドされている。慣れた足取りは、普段の蓮からは想像が付かない。
「……耐えられない」
「気分悪い?」
 蓮があたしを見ている気配がする。目が合わないよう顔を下げたまま、首を小さく横に振る。
「別に無理して最後まで踊らなくてもいいんだからな」
「そういうわけじゃないから」
 大丈夫、と言いたかったけど、大丈夫ではないと心臓が言っていた。
 蓮は何も言わなかった。代わりに彼の手に、少しだけ力が込められた気がした。
「……なぁ、もしよかったら、そのまま聞いてくれるか。零のこと」
 そう言って、彼は口を閉ざした。
 この人、正気だろうか。あたしに性犯罪加害者の話をしようだなんて。
 蓮に視線を向けてみると、彼とは目が合わず、無表情で、口が堅く閉ざされていた。
 あたしが短く返事をすると、彼は再び口を開いた。
「零は皆から期待されていて、何でも平均以上に、いや、完璧にできて、何もかも満たされていた。そんな零が、両親を脅したり、死ぬ前にノートに『I'm winner.』なんて書いたりしてたのが、マジで意味がわからなかった」
 自分の整理した考えを、口に出すためにまた整理するように、言葉を区切りながら紡がれた。
「もし、零が、そんな満たされた自分自身を嫌悪していたら、って最近考えるようになってさ」
「……どういうこと?」
「俺は重圧なんて何も無かったわけよ。せいぜい、矢切家の次男である、ってことくらい。多少道が制限されたとしても、選択肢はそれなりにあったわけな」
 それは、矢切製薬で働くか否かや、将来の結婚相手を指しているのだろう。
「でも、零は違った。最初から決まっていた。いずれトップを継いで、零の地位に相応しい相手と会社を守っていってたんだ。それは政略結婚かもしれねーし、閨閥けいばつ結婚かもしれねー」
 そこで一度口を閉ざした。
 幾重にも重なった弦楽器の音だけが響く。
 その音を一枚一枚剥がすように、自分の推測を、彼は話し始めた。
「零の部屋には何も無かった。零が処分したのか、始めから何も置かないようにしていたのかはわからない。でも、決まりきった未来に、過去の思い出も感情も、何も残さないようにしていたのかもしれない、って、今なら感じる」
 今、彼のお兄さんが歩むはずだった道を引き継ぐのは、蓮本人だ。同じ立場になってようやく見えた世界なのだろう。
「出来損ないの俺は、零にとって暇潰しか鬱憤晴らしの道具くらいでしかないんだろう、って思ってた。でも、ただ自分勝手に振る舞って責任持たねー俺は、さぞ憎かっただろうな。そんな俺が自由だのなんだの言ってるとか、余計目障りだったと思う」
 過去の蓮を知らないあたしは、何も口を挟めない。だがそこには、反省の色が見えた。
「俺の両親、結構対照的なんだよ。親父は完璧主義者なのにコレって決めたらそれだけに執着してさ。視野が狭いわけ。そんな親父から矢切の期待全部背負わされたら。それも幼少期から。あんま想像できねーけど、いくら零でもプレッシャーだったのかなって思うよ」
「……お母さんはどんな人なの?」
「母親は桜錦家当主の妹。零は勿論、俺のことも大事にしてくれてるんだってわかるくらい、俺達兄弟の個性を認めていたよ」
「お母さんまで脅すようなこと、する必要なくない? 相当ショック受けたと思うよ」
「桜錦家の娘が矢切に嫁がなければ、ここまで矢切は絶対的な権力も定まった道も無かったんだよ。矢切だけじゃなくて桜錦の血も引いていることが、そもそもの原因だった。そう考えたら、零にとっては俺だけじゃなくて両親も、怨みの対象だった」
「……それって、つまり、」
「復讐だろうな。自分を縛る矢切家と、矢切家に縛られないで生きられる俺への。自分自身が死ぬことも計画に入れた、零の復讐だったのかもしれない」
「だったら、何で珠莉さんを巻き込んだりなんかしたの」
 蓮を責めるように聞いても、意味が無い。だけど、考えるよりも先に口が動いてしまった。
「……零も、珠莉が好きだったんじゃねーのかなって思う」
「は……?」
「初めて会った時、珠莉から声を掛けてきたんだ。人違いだったけど。でも、俺じゃなくて零と先に会っていたなら、零と間違えて俺に声を掛けていたのなら、納得できる。零が春から俺達の関係を知っていたのも、俺達があのカフェに居ると知っていたのも、珠莉があのハンカチを大切にしていたと知っていたのも、全部……」
 彼は一度口を閉ざす。
 オーケストラの重厚な音楽が響く。
「零がいつから珠莉を知ってたのか知らねーけど、好みが似ててもおかしくはねーかな、って」
「好きなのに、あんなことしたって言うの?」
「珠莉が俺と付き合うよになったのは、ボタンの掛け違いみたいなモンだと思う。もしかしたら、珠莉と付き合ってたのは、零だったかもしれない。珠莉が俺よりも先に零と出会っていたことすら忘れていたのが許せなかったのかもしれないし、俺の彼女になったから力付くでも、って思ったのかもしれないし、それで俺を傷つけられるなら、一石二鳥だったのかもしれない」
「ちょっと待って、それでもやっぱり、そんなのおかしい。好きになった人を傷付けることが目的にも入っていたなんて……」
「……始めから最後に自分が死ぬことも計画に入ってたなら、珠莉が死んで自分も死んだら、心中みてーになるじゃん。正しくは、無理心中かもしれねーけど」
 言葉を失った。
 蓮の推測に過ぎないが、そんな身勝手な理由で、全く関係ない珠莉さんを巻き込むなんて。
「矢切家、俺、珠莉、零は全部、思いのままにした。まさに『零の勝ち』だよ」
 蓮に目を向けると、視線は宙を彷徨っているように見えた。
「……そんなの、勝ちじゃない」
 口を閉ざした彼から視線を外して、言った。
「例え意のままに相手を操っていたとしても、これから先は、まだどうなるかわからない」
 あたしの言葉に耳を傾けている気配がした。彼を見ずに続ける。
「だって、蓮は、生きてるんだから」
 こんなに単純な話じゃないし、無責任に楽観視しているだけだと思われても仕方がない。
 だが、彼が手にしたものは、悪いことばかりではないはずだ。
「……なぁ、何でそこまで未来を信じられるわけ?」
「未来なんて信じてない。希望を持ってるわけでもない。そんな不確かなものに、期待なんてしてない」
 先ほどよりもひしひしと、蓮の視線を感じた。
「……発言内容が食い違う気がするんだけど」
「あたしは可能性の話をしただけ。『これから良いことが待ってる』なんて言ってない。ただね、」
 今度ははっきりと、蓮を見た。
「あたしはあたしの人生を、他の人に奪われたくない。蓮だって、このまま亡くなったお兄さんに縛られたままなんて、ごめんでしょ?」
 いつの間にか、演奏は終わって、蓮の手もあたしから離れていた。中央に集まっていた他の生徒達は、まだこの場を離れずにいた。まだ、他の曲が演奏されるのだろう。
「……紗羅、もう少し、話せるか?」
 楽しむのが目的の話、ではない。
 目の端に映る人々は、この場にお似合いの笑みを浮かべていた。眩しくて、見ていられない。
 この場には、やはり溶け込めない。
「いくらでも。気の済むまで」
 中央の輪から外れて、コートを羽織って窓辺に向かい、テラスへ出た。

   

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